３１（１７）ハシッシュの幻覚(げんかく)

2-31-17-1ついに船は岸に着いた。2-31-17-2だが、それはなんの造作もなく、なんらの動揺もなく、ちょうど唇が唇に触れるとでもいったようだった。2-31-17-3そして彼は、その美妙（びみょう）な音楽の鳴りわたっているなかを洞窟（どうくつ）のなかへはいって行った。2-31-17-4彼はいくつか段をおりた。2-31-17-5いや、おりたような気持がした。2-31-17-6と、彼の呼吸（こきゅう）する大気（たいき）には、あのシルセー（ホメロスの『オデュッセイア』に出てくる魔女。媚薬を飲ませて、人を豚に変えるという）の洞窟あたりにただよっていたのもかくやとばかり、まるで心が夢見心地になるような香（かお）りと、感覚（かんかく）を焼（や）きほろぼすほどの暑（あつ）さが満（み）ちみち、そこには、すがすがしさと、たとえようもない香りが溢れていた。 ホメロス『オデュッセイア』（上）松平千秋　岩波文庫 １０章 (10-480)(10-481)(10-482)(10-483)(10-484)(10-485)(10-486)(10-487) (10-488)(10-489)(10-490)(10-491)(10-492)(10-493)(10-494)(10-495) わたしはしかし、キルケの豪華な寝台に上がり、彼女の膝（ひざ）に縋（すが）って嘆願（たんがん）したのであるが、女神もわたしの言葉に耳を貸してくれた。さてわたしは、キルケに翼ある言葉をかけていうには、『キルケよ、先にあなたがわたしにしてくれた約束、われらを帰国させてやるというその約束を果たして下さらぬか。わたしもすでに今は帰国に気が逸（ハヤ）っているが、それは部下たちも同様で、あなたが不在の折には、わたしを囲んで嘆（なげ）くので、わたしも辛（つら）くてならぬのです』。 わたしがこういうと、世にも美わしい女神は直ぐに答えて、『ゼウスの裔（スエ）にしてラエルテスが一子（いっし）、智謀に富めるオデッセウスよ、そなたらは今はもう、自分の意に反してまで、わたしの屋敷に留まることはない。だが、そなたらは帰国の前に、今一つの旅を仕遂げねばならぬ、すなわち冥王（アイデス）と恐るべきペルセポネイアの館へ行かねばならぬのです。それはテバイの盲目の予言者、テイレシアスの霊に行先のことを訊ねるためで、この男の智力は今も生前に渝（かわ）らぬ。他の亡者どもは、ただ影の如くひらひらと飛び交っているだけであるが、ひとりこの男のみにはペルセポネイアが、死後も心の活力を持つことを許されたのです』。(10-480-495) 2-31-17-7そして、目の前には、自分が眠（ねむ）りに入るに先だって見たもの、あのふしぎな主人のシンドバッドから擠（おし）の下僕のアリにいたるまでが、ふたたび姿をあらわした。2-31-17-8と思うと、やがてすべては消えてしまい、さも明りを消した幻燈（げんとう）の最後の影といったように、目の前のすべてのものが『ごちゃごちゃ』になりでもしたようだった。2-31-17-9すると、眠りか歓楽（かんらく）を見守っているかのような青白い古風（こふう）なランプの光が僅（わず）かに照らし出している、あの立像（りつぞう）の室のなかにいる自分の姿が見出された。 2-31-17-10それらの立像は、人を魅（み）するような眼と、あでやかな微笑と、豊かな髪とを持ち、形も美しく、艶（なま）めかしく、なにか詩的（してき）な、さっき見た立像にほかならなかった。2-31-17-11それらは、フリネ、クレオパトラ、メサリーヌ、この三人の世に聞こえた娼婦（しょうふ）の姿をあらわしていた。2-31-17-12そして、その淫（みだ）らな姿の中央（ちゅうおう）には、こうした汚（よご）れた大理石（だいりせき）像（ぞう）を前にしてその無垢（むく）な面（おもて）を蔽（おお）っているかのような、浄（きよ）らかな一つのかげ、静かな一つの姿、やさしい一つの幻が、まるで一条（いちじょう）の純（じゅん）な光のように、またオリンポスの中央（ちゅうおう）におけるキリスト教の天使とでもいったように、しずかにひかえているのが目にはいった。 2-31-17-13彼には、三つの立像が、その三つの愛を一つにあわせて、ただ一人の男に迫ろうとしているように思われた。2-31-17-14しかも、その男とは、とりもなおさず自分自身にほかならなかった。2-31-17-15彼には、そうした女たちが、いま、足を長い白い衣（ころも）に包（つつ）み、胸（むね）もあらわに、そして髪（かみ）を波のように振（ふ）りみだしながら、もしも昔の神々だったらそのために身を誤（あやま）り、ただ聖者（せいじゃ）たちのみよくこれに堪（た）え得たであろうと思われるような姿をして、鳥をねらう蛇（へび）とでもいったように、燃えさかる不屈（ふくつ）な眼差しを光らせ、彼がふたたび夢路（ゆめじ）にはいりかけていたベッド近くに歩みよってくるもののように思われた。 2-31-17-16そして彼には、自分が、抱擁（ほうよう）のように悩（なや）ましく、接吻のように身内（みつち）をとろかすその眼差しに、わが身を投げ出してかけているように思われた。2-31-17-17フランツは、自分の眼が閉じかけているように思った。2-31-17-18そして、最後の一瞥（いちべつ）を身のまわりにそそいだとき、その清らかな立像が、すっかり身を包みかけているのが見られたように思った。2-31-17-19つづいて、実在のものにたいして眼が閉ざされてしまったとき、感覚は、考えられないような幻（まぼろし）にたいして目をさますことになったのだった。2-31-17-20それは小止（こや）みのない快楽であり、予言者が、選ばれた人々にたいしてしたような、絶（た）ゆる間のない愛撫（あいぶ）だった。 。2-31-17-21それらの石像（せきぞう）の唇（くちびる）には、たちまち血（ち）の気（け）が通（かよ）いだし、その胸は熱（あつ）くなった。2-31-17-22そして、はじめてハシッシュの威力（いりょく）を知ったフランツの疲（つか）れた唇（くちびる）の上に、蛇（へび）のようにしなやかな冷（つめ）たい立像の唇が感じられたとき、その愛撫（あいぶ）はほとんど苦しいほどのものに思われ、その快楽（かいらく）はほとんど呵責（かしゃく）のようにさえ思われはじめた。 2-31-17-23だが、このはじめて知った愛撫を腕でしりぞけようとすればするほど、彼の感覚はますますこの怪（あや）しい夢の魅惑（みわく）に引かれていった。2-31-17-24そして、魂（たましい）までも与えるほどな烈（はげ）しいたたかいの後、彼は身も心もなげうち、疲労に打ちのめされ、快楽に精根（せいこん）も尽（つ）きはてて、この大理石（だいりせき）の恋人（こいびと）たちの接吻と、いままで聞いたこともないようなこの夢のあやかしの下に、息（いき）も絶（た）えだえに打ち倒（たお）されてしまっていた。

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引用者：2016/9/19　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義