３２（１）沖に去り行くヨット

2-32-1-1フランツがわれに返ったとき、あたりのものは、まだ夢のつづきのように思われた。2-32-1-2彼は、自分が墓（はか）のなかにいて、そこへほんのわずかな、ちょうど憐（あわ）れみの眼差しとでもいったように日の光が射しこんできているように思った。2-32-1-3手を差し伸べると衣（ころも）に触（さわ）った。2-32-1-4彼は起きあがった。2-32-1-5彼は、外套（がいとう）にくるまって、柔（やわ）らかい、香気（こうき）の高い、枯（か）れた（本は乾れた）ヒースの『しとね』の上に横たわっていたのだった。 2-32-1-6あらゆる幻影（げんえい）は消えてしまっていた。2-32-1-7そして彫像（ちょうぞう）も、ただ夢のなかで墓（はか）から抜け出してきた影のように、目をさますとともに消えてしまっていた。2-32-1-8彼は日の射しこんでくるほうへ向かって幾足（いくあし）か進んでみた。2-32-1-9夢のうちの不安につづいては、いま現実の平安が立ちもどっていた。2-32-1-10彼は自分が洞穴（どうけつ）のなかにいるのに気がついて、入口（いりぐち）のほうへ向かって歩いて行った。 2-32-1-11そして、弓（ゆみ）なりになった戸口（とぐち）を通して、青空（あおぞら）と紺碧（こんぺき）の海とを見た。2-32-1-12空（そら）と水とは朝の太陽の光に輝きわたっていた。2-32-1-13渚（なぎさ）には船乗りどもが腰をおろして、何か話し合いながら笑っていた。2-32-1-14十歩（じゅっぽ）ばかり離れた海の上には、船がそのおろした錨（いかり）の上にしとやかにゆれていた。2-32-1-15彼はしばらくの間（あいだ）、額（ひたい）の上を吹きすぎる爽（さわや）かな微風（そよかぜ）を味わっていた。 2-32-1-16彼は、岸によせる波、銀のように白い泡（あわ）のレース飾（かざ）りを岩の上に残してゆくその波の、しずかな響きに耳を傾けてみた。2-32-1-17彼はなんの考えもなく、なんの思いもなく、自然（しぜん）のうちに見られる神々（こうごう）しい美しさに心を奪われていた。2-32-1-18それは荒唐無稽（こうとうむけい）な夢から覚（さ）めるとき、とりわけしみじみ感じられるところのものだった。 2-32-1-19そのうち、外にあるものの、かくもしずかな、かくも澄みわたった、かくも壮大（そうだい）な生活（せいかつ）が、彼をして次第（しだい）次第に、自分の見た夢のまことらしからぬことに想（おも）いいたらせた。2-32-1-20そして、思い出が、ふたたび彼の記憶の中に立ちもどってきた。2-32-1-21彼は、自分が島についたときのこと、密輸入者の『かしら』に紹介されたときのこと、すばらしいものでいっぱいのあの地下の宮殿（きゅうでん）のこと、けっこうな晩餐のこと、それに一匙（ひとさじ）のハシッシュのことなどを思いだした。 2-32-1-22だが、こうして白日（はくじつ）下（か）の現実に面していると、それらさまざまのことの起こったのが、少なくも一年前くらいのことのように思われた。2-32-1-23それほど彼の見た夢は、彼の心のうちに生（い）きいきしていて、彼の頭からはなれなかった。2-32-1-24そうしたことから、彼の想像力（そうぞう・りょく）は、彼の一夜（ひとや）を接吻で飾ってくれた影の女たちの一人の姿を、或いはそこにいる船乗りたちのなかに坐らせ、或いは岩上を歩ませ、或いは波に揺れる船の上に立たせた。2-32-1-25しかも彼の頭はまったく解き放たれ、体にはじゅうぶんな休息（きゅうそく）が得られ、頭のなかにはなんの重苦（おもくる）しさも感じられず、反対に、体中（からだじゅう）には漲（みなぎ）りわたる楽々（らくらく）とした気持が感じられ、そこには、空気と日の光とをいつにもまして満喫（まんきつ）できるような大きな力が湧いていた。 2-32-1-26彼は、快活（かいかつ）に船乗りたちのほうへ近づいて行った。2-32-1-27彼の姿が見えるやいなや、みんなは立ちあがった。2-32-1-28そして、船長が彼のほうへやってきた。2-32-1-29「シンドバッドの殿さまから、御前（ごぜん）によろしくとのことでございました」と、彼は言った。2-32-1-30「そして、お別れの御挨拶ができなかったのを残念に思っているとお伝えしてくれとのことでございました。2-32-1-31差し迫った用件でマラガへ行ったことを申しあげたら、おそらくゆるしていただけるだろうとおっしゃいまして」。 2-32-1-32「では、やっぱりほんとうだったのか」と、フランツは言った。2-32-1-33「僕を島に迎えてくれ、王侯（おうこう）のもてなしをしてくれ、そして僕の寝ているひまに出かけて行ったあの人は、ほんとうに実在（じつざい）していた人なのか？」。2-32-1-34「ほんとうでございますとも。2-32-1-35あそこに、ほら、すっかり帆をあげて、あの方（かた）の小さいヨットが進んで行きます。2-32-1-36遠眼鏡（とおめがね）でごらんになったら、乗組員の真中（まんなか）にあの方のお姿がお見えでしょう」。2-32-1-37こう言いながら、ガエタノは手を差し伸べて、いまコルシカの南端（なんたん）へ向かって進んで行く小船のほうを指した。 2-32-1-38フランツは遠眼鏡を取り出した。2-32-1-39そして度（ど）を合わせてから、それをいま指（さ）された方角（ほうがく）へ向けた。2-32-1-40ガエタノの言ったことに誤りはなかった。2-32-1-41船の艫（とも：船尾）のところに、あのふしぎな人物（じんぶつ）は、こちらに向いて立っていた。2-32-1-42そして、彼と同じように、遠眼鏡を手にしていた。2-32-1-43昨日（きのう）自分の前に姿を現（あらわ）したときとまったく同じ着物（きもの）をつけたその人は、別れのしるしにハンケチを振（ふ）って見せていた。 2-32-1-44フランツも、挨拶（あいさつ）を返そうと、ポケットからハンケチを取り出し、その人のするようにそれを振った。2-32-1-45しばらくすると軽い一抹（いちまつ）の煙（けむり）が船の艫のあたりにあがり、それがしとやかに船尾から離れて、ゆるく空（そら）さしてのぼっていった。2-32-1-46やがて、低い一発（いっぱつ）の砲声（ほうせい）がフランツの耳まで達した。2-32-1-47「それ、」と、ガエタノが言った。2-32-1-48「お別れの御挨拶です！」。2-32-1-49フランツも、カラビン銃を手に取ると、空（そら）に向かって一発（いっぱつ）放（はな）った。2-32-1-50だがその音は、ヨットと岸（きし）との間の距離（きょり）から考え、向うにとどきそうにも思われなかった。

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「モンテクリスト伯」　ささくら修道会・必読書
引用者：2016/9/19　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義