３２（２）すべては夢のあと

2-32-2-1「さて、なにか御用がございましょうか？」と、ガエタノが言った。2-32-2-2「まず炬火（きょか：たいまつ）をともしてくれ」。2-32-2-3「よろしゅうございます」と、船長は言った。2-32-2-4「魔法（まほう）の室の入口をお探しになろうというわけですな。2-32-2-5喜んでお手伝いいたしましょう。2-32-2-6お望みの炬火もこしらえましょう。2-32-2-7あっしも以前（いぜん）、お考えのようなことをやってみようと思いました。2-32-2-8三度（さんど）だったか四度（よんど）だったか、そんな気まぐれ心を起しました。2-32-2-9ですが、とうとうあきらめてしまいました。2-32-2-10ジョバンニ、」と彼は言った。2-32-2-11「炬火を一本（いっぽん）つけてな、御前のところへ持ってくるんだ」。 2-32-2-12ジョバンニは言われたとおりにした。2-32-2-13フランツは、炬火を手にして、ガエタノを従えながら地下の室へはいって行った。2-32-2-14彼は、『くしゃくしゃ』になったままのヒースの『しとね』を見て、自分が目をさましたところを見出した。2-32-2-15彼は炬火を振って、洞穴の外側を隈（くま）なく照らしてみた。2-32-2-16だが、それはなんにもならなかった。2-32-2-17目にはいるものは、ところどころの油煙（ゆえん）の跡（あと）、それは彼よりも前に、いろいろな人がおなじような無益（むえき）な捜索（そうさく）をやったことを物語っているに過ぎなかった。2-32-2-18だが、彼は《未来》とでも言ったように冒（おか）しがたいこの花崗岩（かこうがん）の壁について、一足（ひとあし）ごとにそれをしらべてみずにはいられなかった。 2-32-2-19ちょっとした隙間（すきま）があれば、必ずそこに猟刀（りょうとう）の刃（やいば）を差し込んでみた。2-32-2-20突き出たところがあれば、もしや凹（へこ）みがありはしまいかと、必ずその上を押してみた。2-32-2-21だがすべては、まったく徒労（とろう）におわった。2-32-2-22彼は、なんの結果も得ることなく、こうした捜索に二時間という時を費（つい）やした。2-32-2-23そして、その二時間の後、彼はあきらめてしまった。2-32-2-24ガエタノは、それ見たことかと凱歌（がいか）をあげた。 2-32-2-25フランツがふたたび渚（なぎさ）に帰ってきたとき、ヨットは、水平線上ただわずかに白い一点となって見えていた。2-32-2-26遠眼鏡（とおめがね）を取ってみた。2-32-2-27だが、もうなにも見わけることができなかった。2-32-2-28ガエタノは、フランツに、山羊（やぎ）狩（かり）にきたことを思いおこさせた。2-32-2-29彼は、それをすっかり忘れてしまっていた。2-32-2-30彼は銃を手にして、楽しみからというよりむしろ義務といったように、島の中を歩きはじめた。2-32-2-31十五分（じゅうごふん）ばかりすると、山羊を一頭（いっとう）と仔山羊（こやぎ）を二頭（にとう）倒（たお）した。2-32-2-32だが、その山羊は、『かもしか』のように野生（やせい）で敏捷（びんしょう）ではあったが、いかにもわが国（くに）の家に飼（か）われている山羊に似ていたことから、フランツには、どうもそれが猟（りょう）の獲物のようには思われなかった。 2-32-2-33それに、彼はさらに別の力強い考えに心をひかれていた。2-32-2-34昨日（きのう）からの彼は、ぜんぜん『アラビヤン・ナイト』の主人公になりきっていた。2-32-2-35彼の心は、否応（いやおう）なしにあの洞穴のほうへ引かれていた。2-32-2-36そして、第一の捜索がむなしく終ったにもかかわらず、彼はガエタノに向かって仔山羊の一頭をあぶっておくように申しわたしたあとで、ふたたび第二回の捜索をはじめた。2-32-2-37それにはずいぶん時間がかかった。2-32-2-38というのは、彼が帰ってきたとき、もう仔山羊はあぶられ、朝食（ちょうしょく）の支度（したく）が調（ととの）えられていたからだった。 2-32-2-39フランツは、前日（ぜんじつ）、あのふしぎな主人からと言って晩餐の招待（しょうたい）をうけた場所に腰をおろした。2-32-2-40彼にはまだ、まるで鴎（かもめ）とでもいったように波頭（はとう）に揺（ゆ）られながら、小さなヨットがコルシカさして進んで行くのが見えていた。2-32-2-41「ところで、」と、彼はガエタノに言った。2-32-2-42「お前は、シンドバッドさんがマラガ（スペイン南端の港町）へ向かって出帆（しゅっぱん）したと言っていたな。2-32-2-43ところが僕には、ポルト・ベキヨへ向かって行っておいでのように思われるんだが」。 2-32-2-44「お忘れでしたか？」と、船長は言った。2-32-2-45「あの乗組の中には、コルシカの山賊が二人いると申しあげましたが」。2-32-2-46「そうだった！2-32-2-47で、そいつらを上陸させてやろうというわけなんだな？」と、フランツは言った。2-32-2-48「そのとおりです。あの方（かた）ときたら、」と、ガエタノは高い声で言った「噂（うわさ）によれば、神も悪魔も恐れないお方でして。2-32-2-49気の毒な人のためなら、五十海里（５０Ｘ１．８ｋｍ＝９０ｋｍ）もまわり路（みち）をなさるのですから」。2-32-2-50だが、そんなことばかりやっていたら、そうして人助（ひとだす）けをしてやった国の役人（やくにん）どもに、にらまれることになりはしないかな？」と、フランツが言った。 2-32-2-51「へん！」と、ガエタノは笑いながら言った。2-32-2-52「お役人なんて、あの人にとってなんでござんしょう！2-32-2-53てんでばかにしておいでですから！2-32-2-54つかまえられるものなら追いかけてみるがいいでさ。2-32-2-55まずあの方のヨットときたら、あれは船ではありませんや、鳥（とり）ですな。2-32-2-56帆走（はんそう）戦艦（せんかん）が十二海里（＝２１．６ｋｍ）走るところを、十五海里（＝２７ｋｍ）も行くんですから。2-32-2-57それに御自分は、陸（りく）へ上がりさえしたらもう大丈夫（だいじょうぶ）。2-32-2-58どこへ行っても、あの方のお友だちのいないところといったらないんですから」。 2-32-2-59そうしたことからはっきりわかったのは、フランツをまねいてくれたシンドバッドの殿さまというのが、地中海（ちちゅうかい）沿岸（えんがん）を挙（あ）げての密輸入者や海賊たちと関係をもっているということだった。2-32-2-60これは、彼の身分（みぶん）をかなり奇怪（きかい）なものと思わせるのにじゅうぶんだった。 2-32-2-61一ぽう（いっぽう）フランツには、もうモンテ・クリスト島などに留（とど）まっている必要がなかった。2-32-2-62彼は、洞穴の秘密を見つけることをすっかりあきらめてしまっていた。2-32-2-63そこで、一行（いっこう）の食事がすんだらすぐ出かけられるように船の用意を申しつけておいてから、自分も急いで食事にかかった。2-32-2-64三十分（さんじゅっぷん）の後（のち）、彼は船にあがった。 2-32-2-65彼は最後の一瞥（いちべつ）をヨットへ送った。2-32-2-66ヨットは、まさにポルト・ベキヨ湾（わん）にかくれようとしていた。2-32-2-67彼は出発の合図（あいず）をした。2-32-2-68船が動きはじめたとき、ヨットはすでに見えなくなりかけていた。2-32-2-69ヨットとともに、前の晩（ばん）の思い出の名残（なごり）もようやく消えかけていた。2-32-2-70あの晩餐も、シンドバッドも、ハシッシュも、彫像も、フランツにとって、すべてひとつの夢のなかに溶けかけていた。 2-32-2-71船は一日（いちにち）一晩（ひとばん）走りつづけた。2-32-2-72そして、翌日（よくじつ）太陽（たいよう）が昇（のぼ）ったとき、モンテ・クリスト島も姿を消してしまっていた。2-32-2-73（リボルノ港にもどり）船からあがったフランツは、少なくも一時（いっとき）、自分の身に起こったできごとをすっかり忘れ、いまはただ、フィレンツェへ行っていろいろな楽しみや訪問（ほうもん）をすませ、それからローマへ行って自分を待っている友だちに会うことだけを考えていた。

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「モンテクリスト伯」　ささくら修道会・必読書
引用者：2016/9/19　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義