９（３）閉じない傷口

1-9-3-1そのとき、彼の病（や）める心の底には、致命的（ちめいてき）な腫物（はれもの）の、その最初の芽（め）が吹き出していた。1-9-3-2彼が、みずからの野心（やしん）のために犠牲（ぎせい）にしてのけたあの青年、罪あるわが父を助けるため、その身代りにしてのけた無辜（むこ：罪がないこと）の青年は、いま、色（いろ）青（あお）ざめて、おびやかすように、おなじく色青ざめた顔の許嫁と手を組みながら、彼の目の前に立ちあらわれ、その背後（はいご）には、良心（りょうしん）の呵責（かしゃく：とがめ責めること）が姿を見せているのだった。 1-9-3-3しかもそれは、いにしえの運命（うんめい）悲劇（ひげき）にあらわれる狂い立った人々のように、急にこの苦しめる人を飛びあがらせるようなものではなく、それは、時をおいて人の心を打ち叩（たた）き、昔の行為（こうい）を思い出させて責めさいなみ、骨に徹（てつ）するような痛みをだんだん深くへ喰（く）いこませて、遂（つい）には死まで到（いた）らせるところの鈍（にぶ）い、痛（いた）ましい響きなのだった。1-9-3-4ビルフォールは、ちょっとの間ためらわずにはいられなかった。 1-9-3-5すでにこれまで、彼はたびたび、裁判官（さいばんかん）対（たい）被告（ひこく）といった格闘の気持だけから、被告に対して死刑を求めていたのだった。1-9-3-6そして、法官（ほうかん）をも陪審員（ばいしんいん）をも引きずりまわす雷霆（らいてい）のような彼の雄弁（ゆうべん）によって死刑に処したそれらの被告は、彼の額（ひたい）になんら暗影（あんえい）を留（とど）めることがなかった。1-9-3-7なぜかといえば、それらの被告は、すべて罪あるものであり、少くもビルフォールによって罪あるものと認められたものにほかならなかったからだった。 1-9-3-8だが、今度の場合はまったく別だった。1-9-3-9彼は、一人（ひとり）の『むじつ』な男、これからまさに幸福に入ろうとしていた青年（せいねん）にたいして終身（しゅうしん）禁錮（きんこ：監獄に閉じ込める刑罰）の刑（けい）を課（か）し、その自由を滅ぼしたばかりか、その幸福さえも奪ってしまったわけだった。1-9-3-10そうした彼は、もはや裁判官ではなく、一個（いっこ）の冷酷な首切り役人（やくにん）に過ぎなかった。 1-9-3-11こうしたことを思っていたとき、彼は、さっき記（しる）したような鈍い響き、いままで知らなかったそうした響きが、心の底に鳴り響き、取りとめのない不安で胸をいっぱいにするのを感じた。1-9-3-12傷ついたものは、はげしい、本能的（ほんのうてき）な苦痛の教えるままに、その傷口がふたたび閉じるときまで、口が開き、血のにじみ出ている傷口の上に、おびえることなしには指をおくことができない。 1-9-3-13ところで、ビルフォールの受けた傷口（きずぐち）こそは、決して閉じることのない傷口だった。1-9-3-14それはいったん閉じるにしても、前よりさらに血をにじませ、さらに大きな苦しみを伴い、ふたたび口（くち）を開くであろう傷口だった。1-9-3-15もしこのとき、あのルネのやさしい声が、彼の耳もとに赦免（しゃめん）を願うために響きわたったとしたらどうだったか。1-9-3-16もしも美しいメルセデスが入ってきて、こう言いでもしたらどうだったか。1-9-3-17「われらをみそなわし、われらを審きたまう主の御名において、どうかわたくしの許婚の夫をお返しください」。 1-9-3-18そうだ、すでに明白な事実の前に半（なか）ば伏（ふ）せられていた彼の額（ひたい）は、そのまますっかり伏せられてしまったに違いなかった。1-9-3-19そして、わが身に起こる結果のことなどは考えずに、その氷のような手で、ダンテス釈放（しゃくほう）の命令に署名したに違いなかった。1-9-3-20だが、『しん』とした室のなかには一つの声も聞かれなかった。1-9-3-21そして、その室のドアがあいたと思うと、一人の下僕（げぼく）がはいってきて、馬車の用意のできたことを知らせた。 1-9-3-22ビルフォールは、心のなかの闘争に打ち勝ちでもしたように立ちあがった。1-9-3-23というより、むしろ躍りあがった。1-9-3-24そして机のところへ行って、抽斗（「ひきだし」と読む：たんす・机などの，物をしまっておくための抜き差しできるようになっている箱）のなかの金貨（きんか）全部（ぜんぶ）をポケットに詰（つ）め込み、手を額にあて、わけのわからぬ言葉を口にしながら、ちょっとの間、そわそわしたようすで室のなかを歩きまわった。1-9-3-25それから、下僕が肩に外套（がいとう）を着せかけてくれたのに気がついた彼は、家を出て、馬車に飛び乗り、言葉（ことば）短（みじ）かに、グランクール町のサン・メラン氏のところへ立ち寄るように命じた。1-9-3-26これでもう哀れなダンテスは宣告（せんこく）をくだされてしまったのだ。

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引用者：2016/6/16（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書