９（２）戸口の幽霊

1-9-2-1「それはそうです。1-9-2-2ですがわたくしは、自分の手に入れた報告の手柄（てがら）を他人（たにん）と分（わ）けたくないと思っております。1-9-2-3おわかりになってくださいますか？1-9-2-4司法大臣は、おそらくわたくしを、彼の後に追（本は「逐」）い落としてしまうだろうと思います。1-9-2-5そして、手柄（てがら）を奪ってしまいましょう。1-9-2-6侯爵、たった一言（ひとこと）申しあげておきます。1-9-2-7じつはわたくしが、『い』の一番に王宮にかけつけましたら、もうそれだけでわたくしの一生（いっしょう）は保障されます。1-9-2-8というわけは、王さまにたいして、終生（しゅうせい）お忘れになれないような御奉公（ごほうこう）をすることになるのですから」。 1-9-2-9「そうか。1-9-2-10それならすぐに行って支度（したく）をするんだ、1-9-2-11わしはサルビユを呼ばせよう。1-9-2-12そして君の通行証（つうこうしょう）になる手紙（てがみ）を書かせる」。1-9-2-13「承知（しょうち）しました。1-9-2-14では、時間をむだになさいませんよう。1-9-2-15十五分しますと、駅馬車に乗らなければなりませんから」。1-9-2-16「家の前で馬車（ばしゃ）を留（と）めるがいい」。 1-9-2-17「侯爵夫人には、あなたさまからおわびねがえましょうね？1-9-2-18お嬢さまにも、こうした日に、こんなふうにしてお別れするのを深く遺憾（いかん）に思っております。1-9-2-19どうかおわびを願います」。1-9-2-20「二人（ふたり）ともわしの書斎にこさせておこう。1-9-2-21お別れのできるようにしておこう」。1-9-2-22「ありがとうございます。1-9-2-23では、くれぐれも手紙のことをお忘れなく」。 1-9-2-24侯爵はベルを鳴らした。1-9-2-25召使（めしつかい）があらわれた。1-9-2-26「サルビユ伯爵に、わしがお待ちしていると申しあげるのだ」。1-9-2-27それからビルフォールのほうを向いて、「さあ、君は行ったがいい」。1-9-2-28「行って、すぐ帰ってくるだけのことなのでして」。1-9-2-29ビルフォールは走り出て行った。1-9-2-30だが戸口（とぐち）まで行った彼は、検事代理があわただしい歩き方を人に見られて、町の平和が乱されはしまいかと思った。1-9-2-31そして、いかにも荘重（そうちょう）な、平素（へいそ）の調子（ちょうし）に歩きかえた。 戸口の幽霊 1-9-2-32わが家（や）の戸口で、彼は、もの蔭（かげ）に立ったまま身動きしないでいる白い幽霊（ゆうれい）のようなものを見た。1-9-2-33これこそは、あのカタロニヤ村の美しいメルセデスにほかならなかった。1-9-2-34ダンテスの消息（しょうそく）のわからなかった彼女は、日暮（ひぐ）れを待って村を抜け出し、愛人（あいじん）の逮捕（たいほ）された理由を聞こうと思って自分でやってきたのだった。1-9-2-35ビルフォールの近づくのを見るなり、彼女はいままで寄りかかっていた壁を離（はな）れ、彼の行手（いくて）に立ちふさがった。 1-9-2-36ダンテスから許婚のことを聞いていた検事代理は、メルセデスの言葉も待たず、それが彼女であることを見てとった。1-9-2-37そして、その美しさと、そこに何となく犯すべからざるもののあるのに驚かされた。1-9-2-38そして、彼女が自分の愛人の安否（あんぴ）をたずねたとき、彼には自分のほうが被告であり、彼女のほうが裁判官ででもあるかのような気持にされた。1-9-2-39「あなたのおっしゃるその男は、」と、ビルフォールは、『にべ』もなく言い放った。1-9-2-40「あれは重大（じゅうだい）犯人（はんにん）です。1-9-2-41わたしにはどうにもしようがないのです」。 1-9-2-42メルセデスはすすりなきの声を洩らした。1-9-2-43そして、通り過ぎようとするビルフォールを、さらにふたたび押し止めた。1-9-2-44「でも、せめて、どこへまいったらあの方の生死（せいし）がわかりましょう？」と、彼女はたずねた。1-9-2-45「知りません。1-9-2-46わたしの手を離れてしまっているのですから」と、ビルフォールが答えた。1-9-2-47そして、このやさしい眼差（まなざ）し、訴（うった）えるような態度に当惑（とうわく）しきった彼は、メルセデスを押しのけ、いまここにもたらされた苦しみを家の中まで入らせないためとでもいったように、勢（いきお）いよくドアを閉（し）めてしまった。 1-9-2-48だが、苦しみは、こういうふうに押し切ってしまうわけにはいかないのだ。1-9-2-49それは、ビリギリウス（ローマの詩人）の語る毒矢（どくや）の場合と同じように、傷ついた人は、その矢を自分の上にもっている。1-9-2-50ビルフォールは家に入って、戸をしめた。1-9-2-51だが、サロンに入るが早いか、たちまち足もとがぐらぐらした。1-9-2-52彼は、すすり泣きに似た溜息（ためいき）をもらして、倒れるように安楽椅子（あんらく・いす）の中に身を沈めた。

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引用者：2016/6/14　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書