８（５）断腸の後悔

1-8-5-1黎明（れいめい）の僅（わず）かな光が穴倉（あなぐら）のなかに射しこんだとき、ふたたび獄丁（ごくちょう）がやってきて、囚人をそのままにして置けという命令のあったことを伝えた。1-8-5-2ダンテスは、ゆうべのままの位置にいた。1-8-5-3ゆうべ立ち止まったそのところに、鉄の手で釘（くぎ）づけにされてでもいるようだった。1-8-5-4落ちくぼんだ彼の目だけが、涙にはれあがった目蓋（まぶた）のかげにかくれていた。1-8-5-5彼は、身動きもせずに床（ゆか）の上を見つめていた。1-8-5-6ゆうべ一夜（ひとや）、立ったまま、一睡（いっすい）もせずにいたのだった。 1-8-5-7獄丁は彼に近づき、彼のまわりをまわってみた。1-8-5-8だが、ダンテスは、それに気がつきもしないというようだった。1-8-5-9獄丁が肩（かた）をたたいた。1-8-5-10彼は、はっと身をふるわせ、首を振った。1-8-5-11「お前さん、寝なかったのかい？」」と、獄丁がたずねた。1-8-5-12「知らない」と、ダンテスは答えた。1-8-5-13獄丁は驚いて彼をながめた。 1-8-5-14「腹はへらないか？」と、獄丁は言葉をつづけた。1-8-5-15「知らない」と、ダンテスが答えた。1-8-5-16「なにか望みがあるかね？」。1-8-5-17「典獄（てんごく：刑務所長の旧称）さんに会いたいのだ」。1-8-5-18獄丁は、肩をすくめて出て行った。1-8-5-19ダンテスは彼を見守っていた。1-8-5-20そして半開（はんびら）きになった扉のほうへ手をのばしたが、そのまま扉は閉められてしまった。1-8-5-21彼の胸は、長いすすり泣きに掻（か）きむしられでもするようだった。1-8-5-22胸にあふれていた涙は、いま二筋（ふたすじ）の流れのようにほとばしり出ていた。 1-8-5-23彼は顔を大地（だいち）につけて倒（たお）れ伏（ふ）した。1-8-5-24そして、心の中でいままでの生涯（しょうがい）を思い出しながら、こうした若い身空（みそら）でこんな恐ろしい『むくい』を受けるというのはいったいどうした罪を犯したためだろうと思いながら、長いあいだ祈りつづけた。1-8-5-25その日は、こうしたようにして過ぎていった。1-8-5-26彼は僅（わず）かばかりのパンを食べ、僅かばかりの水を飲んだ。1-8-5-27そして或（ある）いは腰かけたまま思いに沈み、或いは牢屋（ろうや）のなかをまるで鉄の檻（おり）に入れられた野獣（やじゅう）のように歩きまわった。 1-8-5-28とりわけ一つの考えが彼に『じだんだ』をふませた。1-8-5-29それは、船にいたとき、どこへつれて行かれるとも知らないままに、あんなにしずかに、あんなにおとなしくしていたときに、もし海へ飛びこもうと思いさえしたら、いくらも機会があっただろうということだった。1-8-5-30いったん水にはいりさえしたら、水泳（すいえい）のうまい自分のことだ、マルセイユきっての『もぐり』泳ぎの腕前をたよりに、水底（みずぞこ）深く姿をかくし、護送者（ごそうしゃ）の目を逃れて海岸（かいがん））まで泳ぎつき、遁走（とんそう）をつづけて、どこか人気（ひとけ）のない入江（いりえ）のなかにでも身を隠（かく）し、ジェノワかカタロニヤの船のくるのを待ってイタリーかスペインへ渡って行き、そこからメルセデスに手紙を出してやってこさせることだってできたはずだ。 1-8-5-31生活にかけては、どこの国へ行ったところでべつに心配はないはずだった。1-8-5-32どこへ行っても、りっぱな船乗（ふなの）りはそうたくさんいないことだし。1-8-5-33彼は、トスカナ（イタリヤ北部：フィレンツェなどのある地方）生まれの男のようにイタリー語が話せた。1-8-5-34自由に、幸福に暮らせることにまちがいなかった。1-8-5-35メルセデスと、それに父と。1-8-5-36そうだ、父もいっしょにやってくることにちがいなかった。1-8-5-37ところが、そうした彼は、いまはただ一個の囚人、シャトー・ディフの、この抜け出しがたい牢獄のなかに閉じ込められ、父がどうなったか、メルセデスがどうなったかも知らずにいるのだ。 1-8-5-38しかも、それはビルフォールの言葉を信じたからのこと。1-8-5-39思っただけで、気がちがいそうな気持だった。1-8-5-40ダンテスは、獄丁が持ってきた新しい寝藁（ねわら）の上に、もの狂（くる）わしくのたうちまわった。

次へ

引用者：2016/6/13　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書