８（４）孤島の牢獄

1-8-4-1一瞬、彼はいっそ禁制（きんせい）を破って体を動かし、この思い設けぬ不幸、いまや自分の身にふりかかり、自分を禿鷹（はげたか）の爪（つめ）のなかにひっつかんでいるこの不幸に、『けり』をつけてしまおうかとさえ思った、1-8-4-2だがそうした不幸がまったく思い設（もう）けぬものだっただけに、彼にはそれが長くつづかないもののように思われた。1-8-4-3それにビルフォールとの約束のことも心に浮かんでいた。1-8-4-4一ぽう、こうして憲兵の手にかかって船中で殺されるのは、かなり見苦しいことでもあり、またあまりにもみじめなことのようにも思われた。 1-8-4-5そこで彼は、憤怒の『うめき』をたてながら、そしていきどおろしくわれとわが手を噛（か）みながら、ふたたび船底に倒れてしまった。1-8-4-6ほとんど同時に、船は烈（はげ）しくなにかにぶつかって一揺（ひとゆ）れゆれた。1-8-4-7船夫（せんぷ）の一人は、船が舳（へさき）を打ち当てたその岩の上に躍（おど）りあがった。1-8-4-8滑車（かっしゃ）から巻き出される綱（つな）が『きしり』をたてた。1-8-4-9ダンテスは、いよいよ着いたんだな、船を繋（つな）いでいるんだなと思った。 1-8-4-10さっきまで彼の腕を押さえつけ、その着物の襟（えり）を締（し）め上げていた連中は、いま彼を促（うなが）して立ちあがらせ、むりやり陸にあがらせた。1-8-4-11そして、城砦（じょうさい）の門へ向かってあがって行く石段（いしだん）のほうへ引っぱって行った。1-8-4-12着剣（ちゃっけん）した騎銃（きじゅう）を持った警視（けいし）が、彼の背後（はいご）にしたがった。1-8-4-13一方ダンテスのほうでも、無益（むえき）な抵抗はしなかった。1-8-4-14歩き方のおそかったのも、抵抗（ていこう）のためというより、むしろ無気力（むきりょく）のさせるわざだった。 1-8-4-15彼は茫然（ぼうぜん）として、まるで酔（よ）いどれのようによろけていた。1-8-4-16彼には、急な傾斜の上に並（なら：本は列）んでいる兵士たちの姿が目にはいった。1-8-4-17そして、むりやり自分の足を上げさせる石段にも気がついた。1-8-4-18一つの門の下をくぐったあとでは、その門が通ったあとでしめられてしまったのにも気がついた。1-8-4-19だがすべては機械的で、はっきりした実体（じったい）がわからず、まるで靄（もや）のなかをとおして見ているように思われた。1-8-4-20海も、もう彼の目からは見えなくなってしまっていた。1-8-4-21それは囚人たちに、もうこの空間を越えることのできないという恐ろしい気持を起させ、それをながめながら深い苦悩を感じさせるところのものなのだ。 1-8-4-22みんなはしばらく立ち止った。1-8-4-23彼は、そのあいだに考えをまとめようとして、あたりを見まわした。1-8-4-24彼のいるところは方形（ほうけい）の中庭（なかにわ）で、四方（しほう）高い壁で囲（かこ）まれ、哨兵（しょうへい）の歩きまわるゆるやかな規則（きそく）正しい足音が聞こえていた。1-8-4-25城砦のなかで輝いている二つ（ふたつ）三つ（みっつ）の灯火（とうか）が壁へ注（そそ）いでいる光のなかを横ぎるごとに、彼らの銃身（じゅうしん）のきらきら光るのが目にはいった。 1-8-4-26そこでおよそ十分（じゅっぷん）ばかりも待った。1-8-4-27「ダンテスの逃げ出せないことは明らかなので、憲兵らは彼を自由にさせておいた。1-8-4-28一同は命令を待っているらしかった。1-8-4-29命令が来た。1-8-4-30「囚人はどこにいる？」と、一人の声がたずねた。1-8-4-31「ここだ」と、憲兵たちが答えた。1-8-4-32「ついてくるように言ってくれ。1-8-4-33室に案内してやるから」。1-8-4-34「さあ行くんだ」と、憲兵はダンテスを押しやりながら言った。 1-8-4-35囚人は、案内者の後から、ほとんど地下室といってもいい一室（いっしつ）、壁は裸で、しかもじめじめして、さも涙が沁（し）みこんでいるとでも言いたいような室のなかへ導かれて行った。1-8-4-36腰掛（こしかけ）の上に置かれ、芯（しん）が臭（にお）い脂（あぶら）のなかに浮かんでいるカンテラといったようなものが、この恐ろしい室のぬらぬらした壁を照らし出していた。1-8-4-37そして、ダンテスの眼に、いま自分を案内してきた、下級（かきゅう）の獄丁（看守）とでもいったような、粗末（そまつ）な服をつけた、顔の卑（いや）しい男を照らし出して見せた。 1-8-4-38「これが今夜（こんや）のお前さんの室だよ」と、男は言った。1-8-4-39「もう遅いからな、典獄（てんごく：刑務所長の旧称）さまはおやすみになった。1-8-4-40あした、お目覚めになって、お前さんいついての報告を御覧になったうえで、たぶん室変えがあるだろう。1-8-4-41それまでのあいだ、ほら、ここにパンと、その壺のなかには水があるし、寝藁（ねわら）はあそこの隅（すみ）にある。1-8-4-42懲役（ちょうえき）人のためにはこれだけだ。1-8-4-43ではおやすみ」。 1-8-4-44ダンテスが返事をしようと口を開くその前に、そして、そのパンというのがどこに置いてあるのか、その壺というのがどこにあるのかを見ようとする前に、また寝床の代わりになるその寝藁がどこにあるのか目を片隅（かたすみ）へふり向けようとする前に、獄丁はカンテラを取り、扉口をハタと閉ざして、いままで、さも稲妻のようにこの牢（ろう）の『ぬらぬら』した壁をうつし出していたぼんやりした光を、囚人の目の前から奪い去って行ってしまった。1-8-4-45いま、彼はこの暗（あん）と沈黙（ちんもく）のなかに、一人（ひとり）ぽっちだった。1-8-4-46そして、燃えるような額（ひたい）の上に、そこから氷（こおり）のような冷（つめ）たさのおりてくるのが感じられている室の丸天井（まるてんじょう：本は円天井）とおなじように、彼はなに一つ口をきかず、暗澹（あんたん）とした面持（おももち）でいた。

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引用者：2016/6/12　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書