８（３）眼前(がんぜん)のイフ城(じょう)

1-8-3-1また新しい問いをかけることもしたくないと思いながら、ダンテスは憲兵（けんぺい）のほうへ近よって行った。1-8-3-2そしてその手を取りながら、「君、」と言った。1-8-3-3「君の良心（りょうしん）と君が軍人であるという資格（しかく）においてお願いする。1-8-3-4どうか僕（ぼく）を気の毒に思って、僕に答えてくれたまえ。1-8-3-5僕は船長のダンテスだ。1-8-3-6自分にはなんのことかわからない叛逆（はんぎゃく）犯人（はんにん）として訴えられているんだが、僕は善良（ぜんりょう）な、忠実（ちゅうじつ）な一個（いっこ）のフランス人だ。1-8-3-7どこへ僕をつれて行こうというんだろう。1-8-3-8言ってくれたまえ。1-8-3-9そうしたら僕も船乗りとして誓って言う、僕は義務を守って運命のままにあきらめることにするから」。 1-8-3-10憲兵は耳を掻（か）いて、仲間（なかま）のほうを顧（かえり）みた。1-8-3-11すると仲間は、ここまできたらもうかまうまいというような身ぶりをした。1-8-3-12憲兵はダンテスのほうを向いた。1-8-3-13「君はマルセイユ人で、それに船乗りだ」と、憲兵は言った。1-8-3-14「それなのに、今さらどこへ行くなんてきくのかい？」。1-8-3-15「そうなんだ。1-8-3-16誓って言うが、僕には、それがわからないんだ」。1-8-3-17「なにか感づいてはいないかね？」。1-8-3-18「いない」。1-8-3-19「そんなことが！」。 1-8-3-20「この世の中で僕のいちばん神聖なものに誓っていい。1-8-3-21お願いだ、どうか答えてくれたまえ」。1-8-3-22「だが、命令をどうするんだ？」。1-8-3-23「命令といったって、あと十分（じゅっぷん）、半時間、おそらく一時間の後にわかることを知らしていけないはずはないじゃないか。1-8-3-24君は、いまからそのときまでの僕の長い不安な時間を取り去ってくれることになるわけなんだ。1-8-3-25僕は君を友だちと思って頼む。1-8-3-26見たまえ、僕は反抗（はんこう）しようとも逃亡しようともしていない。1-8-3-27それに、そんなことはできもしないし。1-8-3-28いったいこうしてどこへ行くんだ」。 1-8-3-29「目隠しされているとか、それともマルセイユの港から一度も外へ出たことがない者ででもないかぎり、どこへ行くかぐらいはわかるはずだが」。1-8-3-30「わからない」。1-8-3-31「なら、あたりを見まわしてみるがいい」。1-8-3-32ダンテスは立ち上がると、目を、船が自然にそこを目指して進んで行くらしく思われる方角へそそいだ。1-8-3-33そして、目の前二百メートルばかりのところに、黒い、嶮（けわ）しい岩のそびえ立っているのを見た。 1-8-3-34岩の上には、暗澹（あんたん：暗くて恐ろしいさま）たるイフの城壁がそびえていた。1-8-3-35その怪奇な姿、周囲に深い恐怖を漂（ただよ）わしたこの牢獄（ろうごく）、三百年来（らい）、陰惨な伝説によってマルセイユを有名にしてきたこの城塞（じょうさい）は、それまで何も考えていなかったダンテスの目の前に忽然（こつぜん）として姿をあらわすことによって、ちょうど断頭台（だんとうだい）を見たときの死刑囚（しけいしゅう）のような気持を起させた。 1-8-3-36「おお！」と、彼は叫んだ。1-8-3-37「イフの城！1-8-3-38いったいあそこへなにをしに行くんだ！」。1-8-3-39憲兵はほほえんだ。1-8-3-40「まさかあそこに閉じこめるためにつれて行くのではないだろうな？」と、ダンテスは言葉をつづけた。1-8-3-41「イフの城は重大な政治犯ばかりに宛てられている政府の牢獄だ。1-8-3-42僕はなにも罪を犯した覚えはない。1-8-3-43イフの城には、予審判事か、それとも誰か裁判官でもいるんだろうか？」。 1-8-3-44「なんでも典獄（てんごく：刑務所長の旧称）が一人（ひとり）に、獄卒（ごくそつ：獄丁（受刑者の世話をする人）とも書かれている）、駐屯（ちゅうとん）部隊、それに頑丈（がんじょう）な壁だけしかないらしい。1-8-3-45さあさあ、そんなに驚いたふうはしないがいい。1-8-3-46親切（しんせつ）のお礼に、おれをばかにしてでもいるように見えるから」。1-8-3-47ダンテスは、砕（くだ）けるかと思われるほど、憲兵の手をしっかり握った。1-8-3-48「では僕を閉じこめるために、あのイフの城へつれて行くのか？」と、彼は言った。 1-8-3-49「そうらしいな」と、憲兵が言った。1-8-3-50「だが、そんなにひどく手を握ったってなんにもならない」。1-8-3-51「では、なんの取調もしないでか？1-8-3-52なんの手続きもふまないでか？」。1-8-3-53「手続きはふんでいる。1-8-3-54取調（とりしらべ）もすんでいるんだ」。1-8-3-55「では、あのビルフォールさんとの約束を無視してか？・・・・」。1-8-3-56「ビルフォールさんと約束があったかどうか、おれは知らない」と、憲兵が言った。1-8-3-57「わかっているのは、これからイフの城へ行くということだけだ。1-8-3-58や、なにをするんだ！1-8-3-59おい、みんなちょっときてくれ！」。 1-8-3-60稲妻（いなずま）のような素早（すばや）さ−−−−もっとも、馴（な）れている憲兵の目にはあらかじめそれと察（さっ）しられていたことだったが−−−−ダンテスは海に飛びこもうとした。1-8-3-61だが、足が舟板（ふないた）から離（はな）れようとした瞬間（しゅんかん）、逞（たくま）しい四つの腕が彼を捉（とら）えた。1-8-3-62彼は憤怒（ふんぬ）にわめき立てながら船底（ふなぞこ）に倒（たお）れた。 1-8-3-63「よし！」。憲兵は、片膝（かたひざ）を彼の胸の上に押しあてながら叫んだ。1-8-3-64「よし！船乗りの約束というのはそんなものか。1-8-3-65さあちょっとでもお体を動かしてみろ、ちょっとでもだ。1-8-3-66一発、頭にお見舞い申すぞ。1-8-3-67一度は命令を破りもした。1-8-3-68だが、はっきり言うが、二度と破りはしないからな」。1-8-3-69こう言いながら、事実彼は、小銃（しょうじゅう）をダンテスのほうへ向けていた。1-8-3-70ダンテスは、その銃口（じゅうこう）が、自分のこめかみにあてられているのを感じた。

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引用者：2016/6/12　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書
2016/7/18