８（２）動く牢獄

1-8-2-1囚人は窓口（まどぐち）のほうへ目を投げた。1-8-2-2どこにも格子（こうし）がはまっていた。1-8-2-3要するに、牢獄がとりかわったというだけだった。1-8-2-4ただ、これは動いている牢獄というわけで、動きながら、彼を見知らぬ方へ向かって運んで行っているのだった。1-8-2-5僅（わず）かに手が出るか出ないほどの格子（こうし）のあいだから、ダンテスには、自分がいまケスリ町を通っているということ、そしてサン・ロラン町とタラミス町を通って河岸（かがん）の方へ向かっているということだけがわかった。 1-8-2-6やがて馬車の格子と、いまそのそばまでやってきた建物の格子のあいだから、門衛所の灯（あかり）の輝くのが見えた。1-8-2-7馬車は止まった。1-8-2-8警部はおりて、門衛（もんえい）のほうへ近づいて行った。1-8-2-9十二人ばかりの兵士が出てきて列を作った。1-8-2-10ダンテスには、河岸の街灯（がいとう）の灯かげに彼らの銃（じゅう）の光るのが見えた。1-8-2-11《こうした警備はみんなおれのためなのだろうか？》と、彼は心にたずねてみた。 1-8-2-12鍵のかかった扉を開けた警部は、何（なに）一言（ひとこと）いわなかったが、しかも彼の問いには答えが与えられていた。1-8-2-13すなわちダンテスは、二列になった兵士のあいだに、馬車から河岸まで自分のためにつくられた路（みち）のあるのを見たのだった。1-8-2-14まず前の腰掛に坐っていた二人の憲兵がおりた。1-8-2-15それから彼がおろされ、そのあとで彼の両側に坐っていた者がつづいた。1-8-2-16一同は、税関（ぜいかん）の水夫（すいふ）が鎖で河岸近く引きよせている一艘（いっそう）のボートのほうへ歩いて行った。 1-8-2-17兵卒（へいそつ）どもはダンテスの通るのを、『ぽかん』とした、もの珍しそうなようすで見まもっていた。1-8-2-18まもなく彼は船の艫（とも：船尾）のところに坐らされた。1-8-2-19周囲には、あいかわらず四人の憲兵と警部が舳先（へさき）のところに座を占めていた。1-8-2-20船は、はげしく一揺（ひとゆ）れすると岸を離れた。1-8-2-21四人の漕手（こぎて）は、力強（ちからづよ）くピロンのほうを指（さ）して漕（こ）いで行く。1-8-2-22船から叫ばれた声に応じて、港を閉（と）ざしていた鎖がさげられた。1-8-2-23ダンテスはいわゆる『フリウール』、すなわち港の外へ出たのだった。 1-8-2-24ダンテスが外に出て一番はじめに感じたのは、すなわち喜びの気持だった。1-8-2-25外気（がいき）、それはほとんど自由そのものだった。1-8-2-26彼はいま、夜と海との見知らぬ匂（にお）いを翼（よく）に乗せた生（い）きいきした微風（びふう）を、胸いっぱいに吸いこんだ。1-8-2-27だが、彼はたちまち溜息（ためいき）を洩（も）らした。1-8-2-28いましも彼はラ・レゼルブ亭（てい）の前を過ぎて行くところだった。1-8-2-29そこでは、つい今朝（けさ）のこと、捕縛（ほばくに）先立つまでのあいだ、彼はあれほど幸福になっていたのだった。1-8-2-30しかも、はなやかなそこのふたつの窓を通して、折（おり）から陽気（ようき）な舞踏（ぶとう）のどよみが、彼の耳まで聞こえていた。 1-8-2-31ダンテスは手を合わせた。1-8-2-32そして天を仰（あお）いで祈（いの）った。1-8-2-33船は路（みち）をつづけて行った。1-8-2-34テート・ド・モールも過（す）ぎ、いまファロの入江（いりえ）の前まできた。1-8-2-35船はさらに船脚（ふなあし）を早めようとしていた。1-8-2-36それはダンテスにとってまったく解（かい）しがたいことだった。1-8-2-37「いったいどこへつれて行かれるんです？」と、彼は憲兵の一人（ひとり）にたずねた。1-8-2-38「いまにわかるさ」。1-8-2-39「でも・・・・」。1-8-2-40「説明を与えてはいけないことになっているんだ」。 1-8-2-41海員（かいいん）であるダンテスは、半（なか）ば軍人（ぐんじん）ともいうべきだった。1-8-2-42話してはいけないと命ぜられている下級（かきゅう）の者に向かってなおも問いかけることは、彼にとってばかばかしいことに思われた。1-8-2-43彼は口をつぐんだ。1-8-2-44そのとき、じつに奇怪（きかい）な考えが心をかすめた。1-8-2-45こんな船でどれほど長い路（みち）が行けるものでなし、それに目ざす方角（ほうがく）にあたって碇泊（ていはく）している船の姿も見えなかったことだし、これはきっと海岸からずっと離れたところまで自分を運んで行き、もうこれで自由になったのだと言ってくれるにちがいない。 1-8-2-46彼は、縛（しば）られてはいなかった。1-8-2-47手錠（てじょう）をはめるようすさえなかった。1-8-2-48彼にとっては、それが良いことのしらせのように思われた。1-8-2-49それに、あんなに親切（しんせつ）にしてくれた検事代理も、もしあの恐ろしいノワルティエの名さえ口に出さなければ心配（しんぱい）することはないと言ってくれたではなかったか。1-8-2-50しかもビルフォール氏は、自分の見ている前で、あの危険な手紙、自分にとってたった一つの証拠（しょうこ）物件（ぶっけん）の手紙までも焼き棄（す）ててくれたではなかったか。 1-8-2-51彼は黙って、考えこみながら待っていた。1-8-2-52そして、暗（あん）に馴（な）れ、広い場所に馴れている船乗（ふなの）りの眼で、この暗を通してうかがってみようとした。 1-8-2-53灯台（とうだい）の灯（あかり）のともっているラトノー島を右に残し、ほとんど海岸に沿って走りながら、いまちょうどカタラン湾（わん）の真正面（ましょうめん）にあたるあたりにかかっていた。1-8-2-54そこまで来ると、囚人（しゅうじん）の目の力は倍（ばい）になった。1-8-2-55そここそは、メルセデスの家のあるところだった。1-8-2-56彼には、そこの暗い岸辺（きしべ）に、おぼろげな女の姿が絶えず見えてきそうな気持がした。 1-8-2-57ひょっとした予感から、メルセデスが、いま自分の恋人が三百歩ばかりのところを通っているのを感じないとどうして言えよう？1-8-2-58ただ一点の灯かげがカタランの町に輝いていた。1-8-2-59彼はその光の位置から考えて、それが許婚（いいなずけ）の部屋（へや）を照らしているものにちがいないことを認めた。1-8-2-60あの小さい村の中で、起きているのはメルセデスばかり。1-8-2-61高く一声（ひとこえ）立てさえしたら許婚の耳まで声がとどこう。1-8-2-62彼は、心にもない羞恥（しゅうち）の気持から、そうすることを思いとまった。1-8-2-63狂人（きょうじん）のようにわめき立てるのを耳にして、船の人たちはなんと思うだろう？1-8-2-64彼は、灯を一心（いっしん）に見まもりながら、一言（ひとこと）も口（くち）に出さずにいた。 1-8-2-65船は路（みち）をつづけていた。1-8-2-66だが、囚人は、船のことなどすっかり忘れて、メルセデスのことだけを思っていた。1-8-2-67地形（ちけい）の変化から、その灯も見えなくなってしまった。1-8-2-68ダンテスはふり返って、船がもう沖合（おきあいに出ていることに気がついた。1-8-2-69彼が、夢中になって考えふけりながらながめていたあいだに、櫂（かい）は帆（ほ）に取り換（か）えられていた。1-8-2-70船はいま、風に送られて走っていた。

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引用者：2016/6/12　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書