７（２）貴族と平民の青年

1-7-2-1《なんだと！》と、彼は低く独（ひと）り言（ごと）を言った。1-7-2-2《『わたしたちにお返しください』・・・・雇主（やといぬし）が、われ知らずそうした集団的な呼び方をするところみると、そのダンテスという男はカルボナリ党の一派にでも属しているのかな？1-7-2-3たしか警部が言っていたと思うが、なんでも酒場で逮捕したということだ。1-7-2-4仲間も大勢（おおぜい）いたということだ。1-7-2-5誰かが密告（みっこく）したんだな》。 1-7-2-6それから声を高めると「いや御安心ねがいましょう」と答えた。1-7-2-7「もしも被告が『むじつ』でしたら、わたしの裁きに対してなんらお訴（うった）えの必要はありますまい。1-7-2-8もし逆に、被告が罪を犯したということでしたら、なにしろむずかしい現在の世の中、罪あるものを罰せずにおいたら甚（はなはだ）しい悪例を残しましょう。1-7-2-9けっきょくわたしとしては、務めどおりをいたすわけです」。 1-7-2-10こう言い終ったとき、ちょうどいま裁判所と背中（せなか）あわせになっている自分の家の門の前にさしかかっていた彼は、冷（ひや）やかな儀礼的（ぎれいてき）な挨拶（あいさつ）をした後で、もったいぶったようすで家の中へはいって行った。1-7-2-11気の毒な船主は、取り残されたまま、化石（かせき）したように立っていた。 1-7-2-12控室（ひかえしつ）は憲兵や巡査でいっぱいだった。1-7-2-13その中央には、捕われた男が、彼らに見張られ、燃えるような憎しみの眼差しに囲まれながら、落ちつき払って身動きもせずに立っていた。 1-7-2-14ビルフォールは玄関を通りながら、横目でダンテスを一瞥（いちべつ）した。1-7-2-15そして、巡査から渡された一束（ひとたば）の書類を手にすると、「その男を連れてきたまえ」と言いすてて姿を消した。1-7-2-16その一瞥は、いかにも素早いものではあったが、ビルフォールとして、これから訊問（じんもん）しようとする男についての観念（かんねん）をつかむためにじゅうぶんだった。1-7-2-17広い、打ちひらいた額（ひたい）には聡明（そうめい）さがうかがわれ、厚い、いくらか緩（ゆる）んだ口のあたりには気立てのすなおさが見られていた。 1-7-2-18そして、唇の間からは、象牙（ぞうげ）のように白い二列の歯が見えていた。1-7-2-19この第一印象（いんしょう）こそは、ダンテスにとってきわめて有利なものだった。1-7-2-20だがビルフォールは、これまで幾度（いくど）となく、深い機略（きりゃく）のこもった言葉として、たとえ第一印象がどれほどよかったにしても、すぐさま心を動かしたりしてはいけないということを教えられていた。1-7-2-21で、彼は、その二つの言葉の間の相違（そうい）などを考えてもみずに、自分のうけた印象にたいして、右の教訓（きょうくん）をあてはめた。 1-7-2-22彼は、最初自分の心のなかにはいりこみ、そこから頭のなかへはいっていこうとしていた善良な本能を圧（お）し殺した。1-7-2-23そして、鏡に向かって改まったときの顔を取りつくろい、さてその上で、不機嫌（ふきげん）な、威圧（いあつ）するようなようすで机に向かった。1-7-2-24しばらくしてダンテスがはいってきた。1-7-2-25青年（せいねん）はあいかわらず青白い顔をしていたが、落ちついて、微笑を浮かべていた。1-7-2-26彼は悪びれない礼儀正しさで裁判官に会釈（えしゃく）し、さも船主の家の客間（きゃくま）にでもきたかのように、目で椅子を探した。 1-7-2-27そのとき初めて、彼の目はビルフォールの暗い眼差しにゆきあった。1-7-2-28それこそは、自分の思っていることを他人に知らせないため、目を艶消（つやけ）しガラス同様にしている裁判官独特の眼差しだった。1-7-2-29この眼差しを見て、彼ははじめて、自分が陰惨な司法権の前に立たされているという事実をさとった。 1-7-2-30「職業と姓名（せいめい）？」。ビルフォールはさっき帰りがけに巡査から渡された書類をめくりながら問いかけた。1-7-2-31その書類は、この一時間のあいだにきわめて厖大（ぼうだい）なものになっていた。1-7-2-32あの腐敗したスパイ制度は、それほどまでに被告と呼ばれる不幸な人の身の上に、たちまち取りついてしまうのだった。1-7-2-33「エドモン・ダンテス」。1-7-2-34青年は、落ちついた、そして、朗々（ろうろう）たる声で答えた。1-7-2-35「モレルさん御父子のファラオン号で一等運転士を務めております」。 1-7-2-36「年齢は？」と、ビルフォールは言葉をつづけた。1-7-2-37「満十九歳」と、ダンテスが答えた。1-7-2-38「拘引（こういん）されたときには何をしていたね？」。1-7-2-39「許婚式の食事の席に列（つら）なっておりました」。1-7-2-40こう答えたダンテスの声は、軽くふるえを帯びていた。1-7-2-41それほどまでに、あの折（おり）の楽しさといまの陰惨な光景との対照（たいしょう）が、彼にとって痛ましく思い出された。1-7-2-42それほどまでに、いまビルフォール氏の暗い顔を見るにつけ、あの折のメルセデスのはればれした顔がまざまざと思い浮かんで、それがあらんかぎりの光を放って輝きわたるように思われた。 1-7-2-43「許婚式の宴（うたげ）に出席していた？」と、検事代理は、思わず『ぞっ』として言った。1-7-2-44「そうです。1-7-2-45ちょうど三年前から愛していた一人の娘と結婚しようとしておりました」。1-7-2-46平素（へいそ）は至って不感無覚なビルフォールも、この暗合（あんごう：思いがけなく物事が一致すること）には『はっ』とした。1-7-2-47そして、幸福の最中（さいちゅう）をおそわれたダンテスの、そのいかにも感動しきった声を聞くと、心の底からの同情の念が目覚（めざ）めかけた。 1-7-2-48自分もまた結婚しかけていたのだった。1-7-2-49自分もまた幸福だった。1-7-2-50そしてその幸福は、ちょうどこの自分とおなじように、あわや幸福に手が届こうとしていた一人の男の喜びを滅ぼすために呼びにこられたため、妨げられたというわけだった。1-7-2-51彼は、こうした不思議な類似こそ、自分がサン・メラン氏のサロンに帰って行くとき、定めし大きな効果をあらわすにちがいないと思った。 1-7-2-52そして、ダンテスがさらに他の質問をと待ちかまえている間、彼はあらかじめ心のうちに、ちょうど演説家たちが拍手（はくしゅ）を受けるため、それが時には真の雄弁と間違えられそうな文句（もんく）を組み立てるのに用いる、あの対照的な言葉づかいを考えていた。1-7-2-53そうした演説の構想が心のなかにできあがると、ビルフォールは、その効果を予想して微笑しながら、ふたたびダンテスの問題にたちもどった。

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引用者：2016/6/6　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書