７（１）検事代理とモレル氏

1-7-1-1食堂から一歩（いっぽ）外へでるやいなや、ビルフォールはいままでの楽しげな仮面をかなぐりすて、同胞の生命について宣言をくだす至高（しこう）な任務を帯びた人間らしい、重々しいようすに変わっていた。1-7-1-2こうした顔つきの変化。1-7-1-3彼はこれまで、ちょうどすぐれた俳優（はいゆう）がやるように、幾度（いくど）となく鏡（かがみ）の前で、こうして顔を変える研究をした。1-7-1-4だが、今日という今日、眉根（まゆね）に皺（しわ）をよせ、顔を曇らしてみせることは、まさに一苦労というわけだった。 1-7-1-5事実、彼は、父の政治系統の思い出、彼にしてそれからまったく身を引き離してしまわない以上、自分の将来がめちゃくちゃになるおそれのあるそうした思い出をべつにしたら、いまや人として望み得るかぎりの幸福な身分になっていた。1-7-1-6すでに富みもあり、二十七歳で司法官としての高い地位を占め、しかも愛する若い美しい娘と結婚しようとしているのだ。1-7-1-7もっともそれは熱情に発した恋ではなく、これまた検事らしい理性に発した愛からだった。 1-7-1-8そして、許婚のサン・メラン嬢こそは、容貌の美しさはもとよりだったが、さらに当時宮廷で羽振（はぶ）りのよい家柄（いえがら）の生まれというわけだった。1-7-1-9子供といっては彼女だけ、いきおい両親の威光はすべてその婿に向けられる上に、花嫁は五万エキュ（５０，０００Ｘ３Ｘ１，０００＝１億５０００万円）の持参金（じさんきん）まで持ってこようというわけだった。1-7-1-10しかも媒酌人（ばいしゃくにん）たちの言った恐ろしい言葉によれば、『親御（おやご）さんたち百年の後』には、さらに五十万エキュ（１５億円）の遺産がつけ加わろうというわけだった。 1-7-1-11こうしたあらゆる状態が一つになって、ビルフォールのためには、目もくらむばかりの幸福が組み立てられていた。1-7-1-12目を放って『じっ』とわが心の生活を見つめた後では、太陽のなかにさえ斑点（はんてん）があるように思われた。（作者の科学知識によるもの）。 1-7-1-13戸口へ出た彼は、自分を待っていた警部に会った。1-7-1-14この陰気（いんき）な男の姿をみるなり、彼はこれまでの第三天の高みから、たちまち現在われらの歩いている物質世界に墜落（ついらく）してしまった。1-7-1-15彼は、さっきも言ったような顔つきをこしらえながら、警部のほうへ歩みよると、「さて、」と、言った。1-7-1-16「手紙は読んだ。1-7-1-17逮捕しておいてくれてよかった。1-7-1-18そこで、その男、それに陰謀（いんぼう）事件（じけん）のことについて、調べあげたことを全部話してもらいたいが」。 1-7-1-19「陰謀についてはまだなんにも手がかりがありません。1-7-1-20男から押収（おうしゅう）しました書類は一括（いっかつ）して、封（ふう）をしてお机（つくえ）の上に置いてあります。1-7-1-21被告（ひこく）は、告訴状（こくそじょう）でも御覧になったと思いますが、帆船ファラオン号乗組（のりくみ）の一等運転士で、アレキサンドリヤ（エジプト）、スミルナ（トルコ）と木綿（もめん）の取引に従事しており、マルセイユのモレル父子商会（しょうかい）所属（しょぞく）の男でございます」。 1-7-1-22「商船に乗りこむ前に、海軍にでも出ていたのかね？」。1-7-1-23「いや、ごく若い男でございます」。1-7-1-24「年（とし）は？」。1-7-1-25「十九（じゅうく）、せいぜい二十（はたち）でございましょう」。 1-7-1-26ちょうどビルフォールが、グランド・リュウを通ってコンセイユ町の角（かど）にきかかったとき、さも彼のくるのを待っていたというように、一人（ひとり）の男が彼のそばへ歩みよった。1-7-1-27モレル氏だった。1-7-1-28「やあ、ビルフォールさん！」と、彼は検事代理の姿が目にはいるなり声をかけた。1-7-1-29「ここでお会いできてなによりでした。1-7-1-30あろうことか、とんでもない間違いごとが持ちあがりまして。1-7-1-31わたしの持ち船の一等運転士エドモン・ダンテスという男がいきなり逮捕されました」。 1-7-1-32「知っております」と、ビルフォールが言った。1-7-1-33「じつはその取り調べに行くところで」。1-7-1-34「おお！」。モレル氏は、青年にたいする友情の気持に駆られるままに言葉をつづけた。1-7-1-35「あなたは、告訴された男を御存じないと思いますが、このわたしは知りすぎるほどに知っております。1-7-1-36世にもやさしい、正直者（しょうじきもの）で、商船づとめの自分の地位をしっかり呑（の）み込んでいる男なのでして。1-7-1-37ビルフォールさん！1-7-1-38心の底からあの男のことをお頼みしたいと思いますが」。 1-7-1-39ビルフォールは、これまでのところでもわかったように、市の貴族社会に属していた。1-7-1-40そしてモレル氏の属しているのは平民（へいみん）の社会だった。1-7-1-41前者（ぜんしゃ）が急進（きゅうしん）の王党であるのにたいして、後者は暗々裏（あんあんり）にボナパルト党たることを疑われていた。1-7-1-42ビルフォールは、さげすむような目でモレル氏をながめた。1-7-1-43そして、冷然（れいぜん）たる態度でこう答えた。 1-7-1-44「御承知のことと思いますが、私行上では柔和であり、取引上では正直（しょうじき）であり、職務については精通（せいつう）している者であっても、政治的に大罪人たることを妨（さまた）げませんからな。1-7-1-45もとより御承知のことと思いますが？」。1-7-1-46こういった彼は、さもそれを船主（ふなぬし）自身にまであてはめるといったように、とくにその最後の言葉に力（ちから）を入れた。1-7-1-47そして、探るような眼つきで、自分のためにさえお目こぼしを願わなければならない男が、いま他人のために取りなそうとしている、その大胆（だいたん）不敵（ふてき）な心底（しんてい）までも見透（みすか）そうとこころみた。 1-7-1-48モレル氏は、『さっ』と顔をあからめた。1-7-1-49それは、政治上の意見に関して、自分でもあまり潔白（けっぱく）とは思っていなかったからのことだった。1-7-1-50それに、元帥（げんすい）との面会に関し、また皇帝の口から言われたという幾つかの言葉に関し、ダンテスからそっと聞かされていた打ち明け話は、彼の心を掻（か）き乱さずにはいなかったから。1-7-1-51だが彼は、必死の思いでつけ加えた。 1-7-1-52「お願いしましす、ビルフォールさん。1-7-1-53お役目（やくめ）がら間違いなく、いつものように御親切にお願いしますよ。1-7-1-54あの気の毒なダンテスをどうか早くわたしたちにお返しくだすって！」。1-7-1-55この『わたしたちにお返しください』。1-7-1-56という言葉が、検事代理の耳には革命的なものとして響きわたった。

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引用者：2016/6/6　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書