６（６）絶対自分の時間

1-6-6-1「お前（まえ）、」と、侯爵夫人は言った。1-6-6-2「お前は、蜂雀（はちすずめ）やスパニエル（スペイン種の猟犬の一種）や着物のことだけ考えていればそれでいいのよ。1-6-6-3そして、旦那（だんな：夫）さまには旦那さまの仕事をさせてあげなければ。1-6-6-4今日（こんにち）は、もう軍人さんの手があいて、裁判官でなければならない世の中というわけなの。1-6-6-5そこのところを言いあらわした意味の深いラテン語の言葉がありましたわ」。 1-6-6-6「Ｃｅｄａｎｔ　ａｒｍａ　ｔｏｇａｅ．（『軍閥の政府はいまや市民の政治にその席を譲るべきときである』キケロの言葉）と、ビルフォールは軽く首を下げながら言った。1-6-6-7「わたくし、どうもラテン語を口に出して言う気になれませんでした」と、侯爵夫人が答えた。1-6-6-8「わたくし、あなたがお医者さまにおなりのほうがよかったろうと思いますわ」と、ルネは言った。1-6-6-9「殺戮（さつりく）の天使（てんし）は、たとい天使であるにしても、びくびくさせられてしまいますの」。1-6-6-10「かわいいことを言いますね！」。ビルフォールは、愛の眼差しを少女の上にそそぎながら言った。 1-6-6-11「お前」と、侯爵は言った。1-6-6-12「ビルフォールさんは、まさにこの県（けん）の精神的・政治的のお医者さまになってくださるわけさ。1-6-6-13じつにりっぱなお役目なのさ」。1-6-6-14「つまりお父さま（ノワルティエのこと）の罪ほろぼしをなさろうというわけなのね」と、あくまで執念深く侯爵夫人が言った。1-6-6-15「奥さま、」とビルフォールは、悲しそうな微笑を浮かべながら言った。1-6-6-16「父が自分の過去の過失から立ち直っていることは、さっき申しあげたとおりです。1-6-6-17少なくもわたくしはそうあってほしいと思っております。1-6-6-18それに、父が、信仰と秩序との熱心な友、おそらくこのわたくし自身より『もっと』りっぱな王党になっているということも申しあげておきました。1-6-6-19と申しますのは、父のほうは悔恨（かいこん）の気持からだったのに反しまして、わたくしのほうは、ただ情熱からに過ぎないというわけですから」。 1-6-6-20こうした婉曲（えんきょく：それとははっきりと言わず遠回しに表現すること）な言葉のあとで、ビルフォールは、自分の雄弁の効果を知ろうとして一座を見まわした。1-6-6-21それは、おなじような言葉を口にしたあとで、彼が検事として法廷を見渡すときと同様だった。1-6-6-22「それですよ！ビルフォール君」。と、サルビユ伯が口を出した。1-6-6-23「一昨日（いっさくじつ）、テュイルリーの宮殿で、宮内（くない）大臣（だいじん）に向かって言ったわたしの返事というのがそのとおりでした。1-6-6-24ジロンド党員の御子息（ごしそく）と、コンデの軍隊の武官（ぶかん）の御令嬢（ごれいじょう）との、このふう変わりな御縁のことについてちょっと聞かれたものですから。 1-6-6-25大臣はよくわかってくださいましたよ。1-6-6-26つまり、こうした融合（ゆうごう）政策こそ、ルイ十八世の御政策というわけですから。1-6-6-27ところが、わたしたちがまったく気のつかないでいるうちに、その話をすっかりお聞きとりになった王さまは、わたしたちの話に割ってはいって、こういうふうにおっしゃいました。1-6-6-28『ビルフォールは、』ようござんすか、王さまは、ノワティエという名をおっしゃらずに、ビルフォールという名に力を入れておっしゃいました。 1-6-6-29で『ビルフォールはきっと出世（しゅっせ）するにちがいない。1-6-6-30なかなかよくできた青年だ。1-6-6-31そしてわたしの味方（みかた）だ。1-6-6-32サン・メラン侯爵夫妻（ふさい）があれを婿（むこ）にするそうだが、わたしは何よりのことと思っている。1-6-6-33あちらから進んでそのゆるしを願いにこなかったときは、むしろわたしのほうからこの婚礼を勧（すす）めてやろうとさえ思っていた』」。 1-6-6-34「王さまがそんなことをおっしゃいましたか？」とビルフォールは喜びに溢（あふ）れた声をあげた。1-6-6-35「わたしは王さまのお言葉どおりをお伝えしました。1-6-6-36そして、侯爵にして率直（そっちょく）に言ってくださるなら、いまお話ししたことは、ちょうどいまから六ヶ月前、侯爵がそのお嬢さまとあなたとの結婚のことを王のお耳にお入れだったとき、王さまの言われたところとピッタリ一致（いっち）することをお認めくださるでしょう」。 1-6-6-37「そのとおり」と、侯爵が言った。。1-6-6-38「おお！してみると、わたくしはあのありがたい王さまに、なにからなにまでごやっかいになっているわけです。1-6-6-39その王さまのおためとあらば、どんなことでもいたしましょう」。1-6-6-40「けっこう、けっこう」と、侯爵夫人が言った。1-6-6-41「わたくしはどんなにあなたが好きでしょう。1-6-6-42いまこそ陰謀を企てるものが出てくるがいい。1-6-6-43目にもの見せてくれてやるから」。 1-6-6-44「でもお母さま、」と、ルネが言った。1-6-6-45「わたくしは、神さまがそうした願いをお聞きとどけにならないようにと祈っていますわ。1-6-6-46ビルフォールさんのところへは、つまらない泥棒（どろぼう）とか、ほんのちょっとした破産者（はさんしゃ）とか、気の弱い詐欺（さぎ）をやった男とか、そんな人たちばかりがまわって来るようにと祈ってますわ。1-6-6-47それならわたくしもしずかに眠れることでしょう」。 1-6-6-48「というのは、」とビルフォールは笑いながら言った、「つまりあなたは医者にとって、やれ頭痛（ずつう）だとか、麻疹（はしか）だとか、蜂（はち）にさされた傷だとか、要するに皮膚の上皮（じょうひ）だけの患者（かんじゃ）ばかりをお望みだっていうわけですね。1-6-6-49もしあなたが、わたしを検事にさせたいとお思いだったら、むしろそれとは反対に、医者の自慢（じまん）になるような恐ろしい患者を望んでくださるはずですが」。 重病人の予感 1-6-6-50ちょうどこのとき、さもこうした希望を聞きとどけるためといったように、さも機会が、ビルフォールの口からその言葉の言われるのを待っていたといったように、一人の召使がはいってきて、彼になにやら囁（ささや）いた。1-6-6-51ビルフォールは、無礼（ぶれい）を侘（わ）びながら食卓を離れて行ったが、しばらくすると、顔いろもはればれと、唇（くちびる）に微笑を浮かべてもどって来た。 1-6-6-52ルネは、彼をほれぼれとながめていた。1-6-6-53青い眼、落ちついた顔、それに顔を『ふち』どっている黒い頬髯（ほおひげ）、まさに優雅な美男子（びなんし）だった。1-6-6-54彼女は、いましも彼の口から、ちょっと座をはずした理由の話されるのを待ちわびながら、まるで心を、彼の唇にかけてでもいるようだった。1-6-6-55「さて、」と、ビルフォールは言った。1-6-6-56「あなたはさっき、医者を夫にもちたいとおっしゃいましたね。1-6-6-57ところがわたしも、あのおエスキュラプ（アポロ神の息子、医薬の神）の弟子（でし）たち（医者のこと）と（１８１５年にはまだこんな物の言い方がされていた）せめてこの点だけは似ていますな。 1-6-6-58つまり絶対自分の時間というものを持っていません。1-6-6-59そして、あなたのおそばにいるときでも、また許婚（いいなけ）披露（ひろう）の席上（せきじょう）からでも、すぐ呼び出されるというわけですから」。1-6-6-60「でお呼ばれになった御用（ごよう）というのは？」と、令嬢は、軽い不安を抱（だ）きながらたずねた。1-6-6-61「それがです。どうやらすっかり手遅れになった病人なのです。1-6-6-62だいぶ事件が重大（じゅうだい）でして。1-6-6-63そして、病気から断頭台（だんとうだい）まで、ほんの一足飛（いっそくと）びというやつなんです」。 1-6-6-64「まあ！」。ルネは顔いろを変えながら声をあげた。1-6-6-65「まさか！」と、列座の連中（れんちゅう）は声を合わせた。1-6-6-66「ボナパルト党の小さな陰謀事件が発見されたというわけでして」。1-6-6-67「まさか？」と、侯爵夫人が言った。

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引用者：2016/6/6　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書