5(5)希望を持つんだ!

1-5-5-1ダンテスは警部の後から、兵士に囲まれながら階段をおりて行った。1-5-5-2戸を開け放った一台の馬車が戸口(とぐち)のところに待っていた。1-5-5-3彼はそれに乗りこんだ。1-5-5-4二人の兵士と警察官も、彼の後から車に乗った。1-5-5-5戸は閉められた。1-5-5-6馬車はマルセイユへ向かって帰って行った。1-5-5-7「行ってらっしゃい、ダンテス!1-5-5-8行ってらっしゃい、エドモン!」。1-5-5-9メルセデスは、欄干(らんかん)の上に身を乗り出しながらこう叫んだ。1-5-5-10囚人(しゅうじん)の耳には、許婚の心を引き裂いたすすり泣きとも思われるこの最後の響きがとどいた。1-5-5-11そして、車の戸口から頭を出すと「行ってくるよ、メルセデス!」と、高く叫んだ。1-5-5-12そして、サン・ニコラの要塞の稜角のかげに見えなくなっていった。

1-5-5-13「ここで待っててもらおう」と、船主は言った。1-5-5-14「わしは見あたりしだい馬車をつかまえてマルセイユへ行って来る。1-5-5-15そして、その後の消息(しょうそく)を持って帰ろう」。1-5-5-16「行ってらっしゃい!」1-5-5-17みんなは、声を揃(そろ)えてこう叫んだ。1-5-5-18「行ってらっしゃい!1-5-5-19お帰りをお待ちして居(お)ります!」。1-5-5-20こうしていま、二組(ふたくみ)の人を送り出したあとには、居残った人たちの間に、恐ろしい気抜けのした瞬間があった。

1-5-5-21老人とメルセデスとは、しばらくのあいだ、おのおの自分自身の苦しみにひたったまま、ひとりぽっちの気持になっていた、やがて二人の目と目は往(い)きあった。1-5-5-22二人は、同時にやられた犠牲者とでもいったように、互いに『さっ』と抱きあった。1-5-5-23ちょうどそのとき、フェルナンが帰ってきて、水を一杯引っかけると、一脚(いっきゃく)の椅子に腰をおろした。1-5-5-24それは偶然にも、老人の腕から離れたメルセデスが腰をおろした、その隣りの椅子にあたっていた。1-5-5-25フェルナンは、本能的に自分の椅子をいざらした。

1-5-5-26「あいつだ」。彼から目を放さずにいたカドルッスが、こうダングラールに向かって言った。1-5-5-27「ではあるまい」と、ダングラールが答えた。1-5-5-28「それほどあいつは利巧(りこう)じゃない。1-5-5-29なにしろ、こうしたことを仕出(しで)かしたやつは、ひどい目に会わされていいわけなんだ」。1-5-5-30「そういう君は、それをやらせた男のことを、なんとも言っていないうようだが」。1-5-5-31「ふん!」と、ダングラールが言った。1-5-5-32「なんでもなしに、言ったことに、いちいち責任はもてないからな」。1-5-5-33「なんでもなしに言ったことが、人をいためたときにでもか」。

1-5-5-34こうしたあいだに、人々はあちこちに集まりながら、拘引(こういん)のことについていろいろ解釈をくだしていた。1-5-5-35「どうです、ダングラールさん、」と、一人の声が呼びかけた。1-5-5-36「君はこのことをどいう思いますね?」。1-5-5-37「わたしですか、」とダングラールは言った。1-5-5-38「わたしは、ダンテス君がなにか禁制品(きんせいひん)の荷でも持ってきたんじゃないかと思いますが」。1-5-5-39「だが、そうだとすれば、会計である君としても当然それを知っていなければならないはずですな」。

1-5-5-40「それはそうですとも。1-5-5-41だが、会計は申し出のあった荷物のことしか知っていませんからね。1-5-5-42綿(わた)が積んであったことは知っています。1-5-5-43それだけでさ。1-5-5-44アレクサンドリヤ(エジプト)のパストレ商会と、スミルナ(トルコ)ではパスカル商会で積荷(つみに)をしました。1-5-5-45もうそれ以上は聞かないでください」。1-5-5-46「おお!それで思い出した」。1-5-5-47気の毒な父親は、その言葉のはしで思いついてこうつぶやいた。1-5-5-48「昨日(きのう、さくじつ)倅(せがれ)は、わしのために、茶が一箱(ひとはこ)と煙草(たばこ)が一箱あると言ってましたよ」。

1-5-5-49「そうれ、」と、ダングラールが言った。1-5-5-50「それですよ、1-5-5-51わたしたちの留守(るす)の間に、税関がファラオン号を臨検(りんけん)した、そして秘密を見つけ出したともいうんでしょう」。1-5-5-52メルセデスは、そんなことを少しも信じていなかった。1-5-5-53そして、そのときまでこらえにこらえていた苦しみが、たちまちすすり泣きとなって爆発した。1-5-5-54「さあ、さあ、希望をもつんだ!」。1-5-5-55自分でもなんの意味ともわからずに、ダンテスの父がそう言った。

1-5-5-56「希望ですよ!」。1-5-5-57ダングラールも同じくくり返した。1-5-5-58「希望」。1-5-5-59フェルナンもそうつぶやこうとした。1-5-5-60だが言葉が息をつまらせた。1-5-5-61彼の唇は顫(ふる)えていた。1-5-5-62そして、その口からはなんの響きも出てこなかった。1-5-5-63「諸君!」。1-5-5-64欄干の上で見張りをしていた客の一人がこう叫んだ。1-5-5-65「諸君、馬車だぞ!1-5-5-66ああ、モレルさんだ、元気を出すんだ、元気を出すんだ!1-5-5-67きっと吉報(きっぽう)を持ってきてくだすったにちがいない」。
 
 
次へ
 
  

引用者:2016/6/5 (笹倉宗)聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」 初代代表者 笹倉正義
ささくら修道会・必読書