３（１）若い男女の会話

1-3-1-1二人の男が目を地平のほうへ放ち、聴き耳を立てながらラ・マルグの芳烈（香気が強いこと）な葡萄酒を飲んでいるところから百歩（ひゃっぽ）ばかり行ったあたり、太陽とミストラル（フランスの南部地方を吹く寒冷な北風、或いは東北風である）に荒らされ、素裸（すはだか）のままの小さな丘のうしろに、カタロニヤ人（びと）の村があった。 1-3-1-2或る日のこと、ふしぎな一隊の殖民は、スペインを出発して、いまでも彼らが住まっているこの細長い半島にやってきた。1-3-1-3どこのものともわからなかった。1-3-1-4そして人の知らない言葉をあやつっていた。1-3-1-5首領立った者のうちでプロバンス語のわかる一人は、マルセイユ市役所にたいして、彼らがちょうど昔の船乗りのように幾隻かの船を引きあげたこの不毛（ふもう）な素裸の海角（うみかど）を、どうか自分たちにさげ渡して欲しいと頼みこんだ。1-3-1-6願いの旨は聞きとどけられた。 1-3-1-7そして三月（みつき）の後には、これらの海のボヘミアン（ジプシーの異称）たちを運んできた十二隻乃至（ないし）十五隻の船を中心として、そこに一つの小さな村が建てられた。1-3-1-8アラビヤ風とスペイン風が半々の、不思議な、美しい建て方のその村こそは、今日（こんにち）それらの人々の子孫が現に住まっているところのものなので、住民は祖父の言語をそのまま語りついでいた。1-3-1-9三（さん）、四（よん）世紀（せいき）このかた、彼らは、ちょうど海鳥（うみどり）の一群のようにしており立ってきたこの小さな海角を、後生大事（ごしょう・だいじ：物をたいせつに保持すること）にまもっていた。1-3-1-10そしてマルセイユの人たちとは全くなんの交渉ももたず、婚姻もお互いどうしの間でだけおこない、言語におけると同じように、母国の風俗習慣をまもりつづけてきたのだった。 ---１４９２年、スペイン南端のラグナダが陥落し、イスラム勢力はイベリヤ半島から一掃された。実に何百年もの間、イベリヤ半島はイスラム勢力の侵入を許していた。そのため、イスラム（アラビヤ風）とキリスト教文化の混交する地域がいくつもあった。このカタロニヤ村の起源には、こうしたスペインの時代背景がある。 1-3-1-11諸君はいま、われらとともにこの小さな村のただ一筋（ひとすじ）の路（みち）をたどり、われらとともにそこにある家の一つのなかにはいっていかなければならない。1-3-1-12家々は、そとのほうは日光によってこの土地特有な美しい朽葉（くちば）色にいろどられ、内部はすっかり『ごふん』塗り、スペインの旅館のたった一つの装飾であるあの白い塗料で塗られていた。 1-3-1-13ぬば玉の（枕言葉：真っ黒な）髪、カモシカを思わせる艶（つや）やかな眼をした一人の美しい少女は、仕切りの戸口に身をよせて立ちながら、その細りとした古代風な指の間になんのとがもないヒースの一茎（ひとくき）をとって、その花をむしり、すでに床の上にはむしられた花片が散り敷いていた。1-3-1-14それに肱（ひじ）まで露（あら）わした腕は、日に焼けてはいるが、アルルのおビーナスにかたどって作られたかと思われるばかり。 1-3-1-15そして、熱に浮かされでもしたように休みなしにふるえていた。1-3-1-16彼女は、柔らかな、線の美しい足の爪先（つまさき）で小刻（こきざ）みにい床（ゆか）を蹴っていた。1-3-1-17そして、ちらりと、ねずみと青でふちどった赤い木綿（もめん）の靴下につつまれた脚（あし）を見せていた。 1-3-1-18彼女から三歩ばかりのところには、掛けている椅子をせわしそうにゆすぶりながら、肱を『むしくい』の古い家具の上について、二十一（にじゅういち）二（に）と思われる大柄（おおがら）な青年（せいねん）が、不安と怨嗟（えんさ）に代わるがわるさいなまれてでもいるようすで、彼女のほうを見守っていた。1-3-1-19その眼は、問いただすとでもいうようだった。1-3-1-20だが、『きっ』とみつめた娘の眼差しは、相手の男をすっかり威圧してしまっていた。1-3-1-21「ねえメルセデス、」と、青年が言った。1-3-1-22「また復活祭がやってくる。1-3-1-23婚礼にはうってつけのときじゃないか。1-3-1-24返事をしてくれないか！」。 1-3-1-25「あたしあきるほど御返事したわ、フェルナン。1-3-1-26それなのにまだそんなことを聞くなんて、あなたこそほんとに自分で自分の立場を悪くしているのよ」。1-3-1-27「よし！いくらでも言ってほしい。1-3-1-28お願いだ、僕に信じられるようにもっとくり返し言ってほしい。1-3-1-29お前のお母さんもゆるしてくれたこの恋を、お前が不承知なのだって。1-3-1-30さ、もう一度言ってくれ。1-3-1-31お前が、僕の幸福をおもちゃにしていることを僕にわからせてほしいんだ。1-3-1-32僕が生きようが死のうが、お前にはなんでもないことをわからせてほしいんだ。1-3-1-33ああ、ああ、お前といっしょになりたいと、この十年というもの夢に見ながら、一生（いっしょう）にたった一つのこの望みをこのままなくしてしまうなんて！」。 1-3-1-34「だって、あたしがそんな望みを起こさせたりしたんじゃないことよ」と、メルセデスが言った。1-3-1-35「あなたにたいして何一つ気のあるようなことをした覚えはないわ。1-3-1-36あたしはいつも言ってたわ。1-3-1-37あたしはあなたを兄弟（きょうだい）のように愛している、だけど、どうか兄弟の愛情以外のものをほしいなんて言わないでちょうだい、なぜって、あたしの心は他の人のものなんだから、って。1-3-1-38あたしいつでもそう言ってたわ、フェルナン！」。 1-3-1-39「そうだった。僕もよく覚えている」と、青年は答えた。1-3-1-40「そうだ、お前は僕に、淡白（たんぱく）すぎるっていうことが、どんなに人をつらくさせるものか思い知らせてくれたんだ。1-3-1-41が、お前はカタロニヤの人たちの間には、お互い同士でなければ結婚してはならないっていう、破ってはならない掟があるのを忘れはしまいな？」。 1-3-1-42「それは思いちがいよ、フェルナン。1-3-1-43それは掟ではないの。1-3-1-44一つの習慣、それだけなの。1-3-1-45どうか、そんな習慣なんか『たて』に取らないでちょうだい。1-3-1-46あなたは徴兵（ちょうへい）に当たったんでしょう。1-3-1-47あなたが自由でいられるのも、それはただ猶予（ゆうよ）してもらっているというだけ。1-3-1-48いつ召集（しょうしゅう）がくるかわからないのよ。1-3-1-49兵隊になったら、あなた、あたしをどうするつもり？1-3-1-50こんな哀れな女を。みなしごで、みじめで、持っているものといっては、すりきれた網のぶらさがった、いまにも壊（こわ）れそうな小屋が一つ。1-3-1-51お父さんからお母さんへ、お母さんからあたしへとゆずられた、そうしたみじめな財産だけしかもっていないこんな女を。 1-3-1-52お母さんがなくなってからの一年というもの、フェルナン、考えてちょうだい、あたしは大体みなさんのお情けで生きてきたんだわ！1-3-1-53あなたはときどき、あたしがさもあなたのお役に立ちでもしたようなようすをしたわね。1-3-1-54それはつまり、自分の釣った魚を、あたしに分けてくださりたいと思ったからよ。1-3-1-55あたし、それはいただいたわ。1-3-1-56なぜって、あなたはあたしのお父さんの兄弟の子で、あたしたちはいっしょに育てられてきたんですもの。1-3-1-57それに、それよりもっともっと大きな理由は、もしあたしがいらないって言ったら、あなたはずいぶんいやな思いをしただろうと思ったからなの。1-3-1-58でも、頂いたお魚を売ったお金で、糸を紡（つむ）ぐ麻（あさ）を買ってくるのも、あたしにとってはお情けを受けているように思われてしかたがないの」。 1-3-1-59「そんなことはかまうもんか、メルセデス。1-3-1-60お前がどんなに貧乏（びんぼう）で一人ぽっちで、お前は僕にとってマルセイユのどんなりっぱな船主や、どんな金持（かねもち）の銀行家の娘なんかよりも、ずっとずっと気に入ってるんだ！1-3-1-61僕たちに必要な女房（にょうぼう）といえば、それは、正直（しょうじき）で、よく家のなかを切り廻してくれる人だ。1-3-1-62この二つを満足させる人は、お前意外どこへ行ったって見つかるものか」。 1-3-1-63「フェルナン、」と、メルセデスは首を振りながら答えた。1-3-1-64「女っていうものは、自分の夫以外のひとを思っていたりすると、家の切り廻しも下手（へた）になれば、正直な妻にもなれなくなるのよ。1-3-1-65お友だちとしての気持だけでがまんしてちょうだい。1-3-1-66も一度言うと、それがあたしとしてお約束できるすべてなの。1-3-1-67あたし、たしかに上げられると思ったものでなければお約束できないんですもの」。1-3-1-68「わかった」と、フェルナンが言った。

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引用者：2016/5/20　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義