１５（７）人の声がした

1-15-7-1ただ、彼の気のついたのは、自分が仕事をはじめて以来、あの男、向こうの囚人が、少しも仕事をしていないらしいということだった。1-15-7-2だが、そんなことはどうでもよかった。1-15-7-3それを理由として、こっちの仕事をやめるわけにはいかなかった。1-15-7-4向こうでこないということだったら、こっちのほうから出かけるまでだ。1-15-7-5日がな一日（ひがないちにち）、彼は休むひまなく働いた。1-15-7-6日暮れになると、新しい道具のおかげで、壁から十つかみほどの素石、『しっくい』、セメントの屑（くず）が掘り出された。1-15-7-7獄丁のくる時刻になると、彼は曲った鍋の柄を一生懸命（いっしょうけんめい）まっすぐになおし、それをいつものところに置くことにした。 1-15-7-8獄丁は、例のとおりの分量のスープと肉、とはちがって、スープと魚を入れて行った。1-15-7-9ちょうどその日が、小斎日（カトリックの習慣で肉を食べない日）に当たっていたからだった。1-15-7-10一週に三度、囚人たちは肉食をさせてもらえなかった。1-15-7-11もしダンテスにして、ずっと前から日をかぞえることをつづけていたら、こうしたことも、時の計算のための一つの手がかりにできただろう。1-15-7-12獄丁は、スープを入れると出て行った。1-15-7-13彼は今度こそ、向こうの男が、ほんとに仕事をやめたのかどうか、それをたしかめてみようと思った。1-15-7-14彼は耳をそばだてた。 1-15-7-15仕事がやんでいた三日の間とおなじように、あたりは『ひっそり』して音もなかった。1-15-7-16ダンテスは、思わず『ほっ』と溜息をついた。1-15-7-17相手は、たしかに警戒しているのだ。1-15-7-18だが、彼は力を落さなかった。1-15-7-19そして、夜を徹して働きつづけた、だが二三時間（にさん・じかん）も働くと、かれは一つの障害物に打ち当った。1-15-7-20鉄の柄は、それから先へははいろうとしないで、平たい表面だけを滑っていた。1-15-7-21ダンテスはその障害物に手を当ててみた。1-15-7-22そして、自分が『けたかまち』にゆき当ったことをたしかめた。1-15-7-23その『けたかまち』こそ、彼の掘りはじめた穴を横ぎるというより、むしろふさいでいたのだった。1-15-7-24いまとなっては、堀りあげるか、掘り下げるか、二つに一つの道よりなかった。1-15-7-25こうした障害物があろうなどとは、夢にも考えていなかったのだ。 1-15-7-26「おお！主よ！」と、彼は叫んだ。1-15-7-27「わたしは幾度も祈りました。1-15-7-28そして、きっとお聞きとどけくださることと思っていました。1-15-7-29主よ！かつてわたしから生（せい）の自由をお奪いになり、そして、わたしから死のやすらぎをもおとり上げになり、わたしをふたたび生活にお呼び戻しになった主よ！1-15-7-30どうかわたしをお憐れみください。1-15-7-31わたしを絶望のうちにお死なせにならないでください！」。 1-15-7-32「主と絶望を同時に口にしているのは誰だ？」という声がした。1-15-7-33それは地面の下から聞こえ、直接なものではなかったので、そのこもった響きを耳にしたダンテスには、まるで墓から聞こえてきたもののように思われた。1-15-7-34ダンテスは、頭髪（とうはつ）が逆立（さかだ）ちでもしたように思った。1-15-7-35そして、ひざまずいたまま、あとしざりした。1-15-7-36「おお！」と、彼はつぶやいた「人間の言葉が聞こえたぞ」。1-15-7-37四五年（しごねん）このかた、彼は獄丁以外の人間の言葉を聞かなかった。1-15-7-38しかも、彼にとっては、獄丁は、人間の部類にはいらなかった。1-15-7-39それは、樫の扉につけ足された、生きた扉にほかならなかった。1-15-7-40鉄の格子に添えられた、肉の格子にほかならなかった。 1-15-7-41「主の御名（みな）において！」と、ダンテスは叫んだ。1-15-7-42「いま口をきかれた方（かた）、こわいお声でしたが、もっとなんか言ってください。1-15-7-43あなたはいったいどなたです？」。 1-15-7-44「そういうあなたはどなたかな？」。 1-15-7-45「不仕合（ふしあわ）せな囚人です」と、ためらうことなくダンテスが答えた。 1-15-7-46「お生まれはどこだ？」。 1-15-7-47「フランスです」。 1-15-7-48「お名前は？」。 1-15-7-49「エドモン・ダンテス」。 1-15-7-50「職業は？」。 1-15-7-51「船乗（ふなのり）りです」。 1-15-7-52「いつからここにはいっておいでだ？」。 1-15-7-53「１８１５年の２月２８日から」。 1-15-7-54「どういう罪で？」。 1-15-7-55「『むじつ』の罪です」。 1-15-7-56「だが、いったいなんで訴えられた？」。 1-15-7-57「皇帝陛下（ナポレオンのこと）御帰国の陰謀を企てたということで」。 1-15-7-58「なんといわれる！1-15-7-59皇帝陛下の御帰国だと！1-15-7-60では、皇帝陛下はもう位についてはおられんのか？」。 1-15-7-61「１８１４年フォンテーヌブローで御退位になって、エルバ島にお流されになりました。1-15-7-62そうしたことを御存じないとは、あなたはいつからここにおいでなのです？」。 1-15-7-63「１８１１年から」。 1-15-7-64ダンテスは身をふるわせた。1-15-7-65この人は、彼より四年も前から牢に入られていたのだった。

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引用者：2016/6/1　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書