１５（６）より確かな工具

1-15-6-1三日（みっか）の後、彼は驚くほどの注意をもって、セメントをすっかりはがしてしまい、石を裸にしてしまった、壁は素石で畳（たた）まれていて、そのなかに、ところどころ、頑丈（がんじょう）にするために切石が用いてある。1-15-6-2彼はいま、こうした切石をほとんどむきだしにしていた。1-15-6-3そして、いまはただ、それのはめこまれている穴のなかで、それがぐらつくようにしさえすればいいのだった。1-15-6-4ダンテスは、爪をつかってやってみた。1-15-6-5だが、爪ではどうにもならなかった。1-15-6-6水差しの破片を隙間に挟んでやってみたのだが、それを『てこ』がわりにつかおうとしたとたん、折れてしまった。1-15-6-7あれやこれや一時間もむだな努力をつづけたあとで、彼は、額（ひたい）に汗と苦悩の色を浮かべながら身を起こした。 1-15-6-8だからといって、はじめてからまもなくやめてしまっていいものだろうか。1-15-6-9そして隣りの男、事によると向こうでも疲れてしまうかもしれないその男が、すっかり事を成し遂げてしまうのを、手をこまねき、なんの役にもたたないで、待っているのが能だろうか！1-15-6-10このとき、一つの考えが頭をかすめた。1-15-6-11彼は、突立ったまま微笑を浮かべた。1-15-6-12汗にぬれた彼の額は、そのとき自然に乾いていた。 1-15-6-13獄丁は、毎日ダンテスのスープをブリキの鍋に入れて持って来た。1-15-6-14この鍋のなかには、彼のスープと同時に、次の囚人のスープもはいっていた。1-15-6-15ダンテスは、獄丁が食事の配給をするとき、彼からはじめるか、彼の仲間からはじめるかによって、あるときは鍋がいっぱいであり、あるときはそれが半分になっていることを知っていた。1-15-6-16鍋には鉄の柄がついていた。1-15-6-17ダンテスがねらっていたのは、その鉄の柄だった。1-15-6-18それを手に入れるためには、たといその代償（だいしょう）として、十年の命をちぢめても少しも惜（お）しいとは思わなかった。 1-15-6-19獄丁は、鍋の中味（なかみ）をダンテスの皿につぐ。1-15-6-20木の『さじ』でスープを飲み終わったダンテスは、毎日役にたってくれるその皿を洗っておくことにした。1-15-6-21その日の夕方、ダンテスは、扉口とテーブルのあいだの地面に皿を置いた。1-15-6-22と、獄丁は、はいってくるなり、皿に足をかけて粉みじんに割ってしまった。1-15-6-23今度はダンテスに向かってなんの文句の言いようもなかった。1-15-6-24なるほど皿を下に置いたのはいけなかった。1-15-6-25といって、獄丁にしても、下を見なかったのが『ぬかり』だった。 1-15-6-26獄丁は、ひとり『ぶつくさ』言うよりほかに仕方がなかった。1-15-6-27そして、あたりを見まわしながら、スープを空けるものを探していた。1-15-6-28だが、ダンテスの持ち物は、この皿以外になにもなかった。1-15-6-29ほかにどうとも仕様がなかった。1-15-6-30「鍋を置いて行けよ」と、ダンテスが言った。1-15-6-31「あした朝飯（あさめし）を持ってきたときに持ってけばいいじゃないか」。1-15-6-32この注意が、獄丁の不精（ぶしょう）な気持を満足させた。 1-15-6-33そうすれば、あがって行ってまたおりてきて、も一度あがるだけの手数がはぶける。1-15-6-34獄丁は、こうして鍋を置いて行った。1-15-6-35ダンテスは、嬉（うれ）しさのあまり身ぶるいした。1-15-6-36彼は、そのスープと、それに牢内の習慣に従ってスープに添えられた牛肉とをえらい勢いで平らげた。1-15-6-37そして、獄丁が考えなおして帰ってこないことをたしかめるため、一時間も待ってみてから、ベッドをずらし、鍋をとって、その柄の端（はし）を、セメントを取り去った切石と、それを囲んでいる素石に突っこみ、『てこ』代わりにして使いはじめた。 1-15-6-38軽く石が動いて、うまくいっている手ごたえがあった。1-15-6-39まさにそれから一時間の後、石は壁から取りのけられた。1-15-6-40と、そこには径一尺五寸（４５Ｃｍ）以上もあろうかと思われる穴ができた。1-15-6-41ダンテスは、『しっくい』を丹念（たんねん）に拾（ひろ）い、それを室の隅へ持って行き、水差の破片の一つで、鼠（ねずみ）色の地面を掻き起こすと、上からすっかり土をかぶせた。1-15-6-42そして、偶然といおうか、いや彼の巧みな策謀によってこの貴重な道具が手にはいった一夜（いちや）を、じゅうぶん利用せずにはおかないかのように、夢中になって掘りつづけた。 1-15-6-43夜明けになると、彼は石をまた元の穴にはめ、ベッドを壁に押しやってから、横になった。1-15-6-44朝飯はパンがたった一片。1-15-6-45獄丁ははいって来て、パンをテーブルの上にのせた。1-15-6-46「どうした！他の皿を持って来なかったのか？」と、ダンテスがたずねた。1-15-6-47「いや」と、獄丁は答えた。1-15-6-48「お前はなんでもこわしてのける。1-15-6-49水差をこわす。1-15-6-50わしが皿をこわしたのもお前のせいだ。1-15-6-51囚人の誰も彼もが、みんなお前のようなぶちこわしをやったとしたら、『おかみ』だってやりきれまい。1-15-6-52お前には鍋を置いて行く。1-15-6-53そのなかにお前のスープを入れることにする。1-15-6-54こうしたら、このさき世帯（せたい）道具をこわすまい」。 1-15-6-55ダンテスは、思わずも天を振り仰いだ。1-15-6-56そして、夜具（やぐ）の下で両手を合わせた。1-15-6-57鉄の柄が自分の手に残されたこと、それは彼に、天にたいする深い感謝の気持を起させないではいなかった、これまでの生涯をふり返ってみたかぎりにおいて、いかに嬉しいことがおとずれたときでも、これほど嬉しかったことはついぞなかった。

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引用者：2016/6/1　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書