１５（３）断食にて死すべし

1-15-3-1こうした考えが心に芽ぐんでからは、彼はいままでよりもおとなしくなり、機嫌がよくなった。1-15-3-2彼は、固いベッドや黒パンについても苦情を言わなくなった。1-15-3-3食を減じ、眠りを取らなくなった。1-15-3-4使い古した着物でも棄てるように、いつでも好きなときに投げ棄てることができると思うと、こうした生き残りの生活にしてもどうやらがまんできないこともないように思われてきた。1-15-3-5死ぬには二つの方法があった。1-15-3-6一つは、ハンケチを窓の格子に結びつけて首をくくる、というかんたんなやりかた。 1-15-3-7他の一つは、食べたようなふりをしておいて、絶食して死ぬという方法だった。1-15-3-8第一の方法は気に入らなかった。1-15-3-9彼はこれまで、海賊を恐ろしいものと思って育てられてきた。1-15-3-10ところで、その海賊は、すべて船の帆桁（ほげた）につるして処刑されるのだった。1-15-3-11そのことから、首くくりは一種不名誉な刑罰のように思われ、それを自分でやろうなどとは思いもよらなかった。 1-15-3-12そこで、第二の方法をえらぶことにした。1-15-3-13そして、その日のうちに実行に取りかかった。1-15-3-14ところで、あれやこれやのあいだに、すでに四年の月日が過ぎていた。1-15-3-15その二年目の終りから、ダンテスは日をかぞえることをやめていた。1-15-3-16そして、ふたたびかつて検察官によってそこから引き出してもらった時にたいする忘却のなかへと落ち込んでしまっていた。1-15-3-17ダンテスは《おれは死ぬのだ》と言った。1-15-3-18そして、その死にかたをえらんだ。1-15-3-19彼は、しっかりその死にかたを考えた。 1-15-3-20彼はせっかくの決心を飜（ひるが）えすようなことがあってはならないと思って、そうやって死のうと、固く心に誓っていた。1-15-3-21彼は、朝の食事、晩の食事が運ばれるごとに、それを窓から投げ棄て、さも食べたようなふりをしてやろうと思っていた。1-15-3-22彼は自分の決心したように決行した。1-15-3-23日に二遍（にへん）ずつ、彼は、空だけしか見えない小さな格子窓（こうしまど）から、運ばれた食事を投げ棄ててしまった。1-15-3-24はじめは愉快にやってのけた。1-15-3-25だが、やがて考えてから捨てるようになり、ついにはさも惜しそうに捨てるようになった。 1-15-3-26その怖ろしい計画をつづけるためには、彼はいつも誓のことを思いださなければならなくなった。1-15-3-27やがて、かつてあれほど厭（いや）に思っていた食事が、いまや鋭い歯をした饑（うえ）のおかげで、見た目にいかにもうまそうに、鼻にはいかにもたまらない匂いをもって感じられるようになってきた。1-15-3-28時によると、彼は一時間も、食事のはいった皿を手にもったまま、腐った肉の上、或いは臭い匂いのする魚の上、黒い「じめじめ」したパンの上を見据えていた。1-15-3-29それは、生にたいする最後の本能が心の中で戦っていたからにほかならなかった。 1-15-3-30それはときどき、彼の決心を打ち負かしそうになった。1-15-3-31そうなると、牢獄も、いままでほど暗澹（あんたん）たるものには思われなくなってきた。1-15-3-32自分の境遇にしても、これまでほどには絶望的なものに思われなくなってきた。1-15-3-33彼はまだ若かった。1-15-3-34かれこれ二十五六（にじゅうご・ろく）のはずだった。1-15-3-35おそらくまだ五十年は生きられよう。1-15-3-36すなわちいままで生きてきた二倍なのだ。1-15-3-37その長い時のあいだに、とつぜんどんな事件が起こって、この扉が開かれ、シャトー・ディフの壁が倒壊して、自由な身になれないもんでもない！ 1-15-3-38彼は食物を口に近づけた。1-15-3-39が、彼はわれとわが心をタンタールにして、それをそれを口から遠ざけた。1-15-3-40誓言の記憶が、心によみがえってきたからだった。1-15-3-41そして、誓約に背いてまで、みずからを卑しいものにすることを恐れたから。1-15-3-42こうして彼は、雄々（おお）しくも、また非情にも、みずからのうちに僅（わず）かに残っている生命力をすりへらしていった。1-15-3-43そして、或る日のこと、運ばれてきた夕食を明り窓から投げようとしながら、もう立ち上がるだけの力さえなくなっていた。 1-15-3-44翌日になると目が見えなくなっていた。1-15-3-45ただ僅かに耳が聞こえた。1-15-3-46獄丁（看守）は、てっきり重い病気に罹（かか）ったものときめた。1-15-3-47ダンテス自身も、近く死ぬだろうと思っていた。1-15-3-48その日はこうして過ぎていった。1-15-3-49ダンテスは、どうやら取りとめのないしびれるような気持、それでいて何かしら楽々とした気持になってくるのを感じた。 1-15-3-50いまは神経的な胃のけいれんもすっかりおさまっていた。1-15-3-51恐ろしい咽喉（のど）の乾きもとまっていた。1-15-3-52目をつぶると、夜、沼地の上を走って行く狐火のようにキラキラする無数の灯（あかり）が目に映じた。1-15-3-53それは、死と呼ばれる見知らぬ国の、黄昏（たそがれ）の微光にほかならなかった。1-15-3-54その夜のこと、九時ごろ、彼は自分のよりかかっている壁に鈍い物音を聞きつけた。1-15-3-55牢のなかでは、さまざまな不気味（ぶきみ）な動物が物音（ものおと）をさせに来たものだった。1-15-3-56そして、ダンテスも、いまではそんなわずかなことで睡眠を妨げられるようなこともなくなっていた。 1-15-3-57ところが、今度にかぎって、或いは断食（だんじき）によって感覚が鋭くなったためと言おうか、それとも音がいつものやつより大きかったためと言おうか、あるいはこうした最後の「きわ」になると、すべてが重大さをもってくるためと言おうか、ダンテスは、その音を聞きわけようとして首をもたげずにはいられなかった。1-15-3-58それは、規則正しく掻（か）いている音で、大きな爪（つめ）と言うか、強い歯と言うか、なにか道具らしいものが石に当たるような音だった。

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引用者：2016/5/31　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書