１３（６）フェルナン

1-13-6-1フェルナンには、何もわかっていなかった。1-13-6-2ダンテスがいなくなった、彼にとっては、もうそれだけでじゅうぶんだった。1-13-6-3ダンテスはいったいどうなったのだろう？1-13-6-4彼は、そんなことなどてんで知ろうとも思わなかった。1-13-6-5ただ、ダンテスがいなくなったこの機（き）に乗（じょう）じて、彼はいろいろ工夫（くふう）をめぐらした。1-13-6-6或いはダンテスが姿を消した動機（どうき）を『たね』にして、メルセデスをだましてやろうかと思ったり、或いは移住（いじゅう）や誘拐（ゆうかい）の計画を立ててみたりした。 1-13-6-7それに折々（おりおり）、マルセイユとカタロニヤ村を一目（ひとめ）に見渡すファロの岬の端（はし）に腰をおろして、二本の路（みち）の一方（いっぽう）から、足取り勇ましく、頭を高くあげた一人の美丈夫（びじょうぶ）が、すなわち、彼にとってはいまは恐ろしい復讐（ふくしゅう）の使者であるその男が、たちまち姿をあらわしてきはしまいかと、まるで猛禽（もうきん）のように、『じっ』と、悲しげにながめ入っていた。1-13-6-8そうしたときこそ、彼にとっていちばん苦しいときなのだった。 1-13-6-9そのときの腹（はら）はきまっていた。1-13-6-10彼は一撃（いちげき）の下（もと）にダンテスの頭を貫（つらぬ）き、しかもそうした凶行（きょうこう）を美しく彩（いろど）るために、自分も後（あと）から自殺（じさつ）してしまおうと考えていた。1-13-6-11だが、それはフェルナンの大げさな考えというものだった。1-13-6-12彼にはとても自殺などできなかった。1-13-6-13なぜかといえば、彼はいつでも希望をつないでいたのだから。 1-13-6-14こうしたあいだ、さまざまな深刻な変化の間に、帝国はその最後の軍隊（ぐんたい）募集（ぼしゅう）を試み、そして、銃（じゅう）を持ち得るかぎりの男子（だんし）という男子は、轟（とどろき）きわたる皇帝の声に応じてフランス国外（こくがい）へ躍（おど）り出して行った。1-13-6-15フェルナンもまた、自分が出かけた後、あの競争者が帰ってきて、愛する彼女と結婚しはしまいかという暗い怖ろしい考えになやまされながら、他の者たちと同じように、メルセデスの家をあとにして出かけて行った。 1-13-6-16フェルナンにして、ほんとうに自殺の気持があったとしたら、それはメルセデスから別れるときに、まさしくしてのけたにちがいなかった。1-13-6-17彼のメルセデスへの心づかい、彼女の不幸によせているらしい同情（どうじょう）の気持、ちょっとした彼女の望みもすぐ察してやる心づくし、それらは、鷹揚（おうよう）な心の所有者にたいし、見かけの親切（しんせつ）がわけなくひき起こすであろうような結果を彼女の上にもひき起こした。 1-13-6-18メルセデスは、いつもフェルナンを友情をもって愛していた。1-13-6-19しかもその友情には、さらに別の感情、すなわち彼にたいする感謝の気持がつけ加わっていた。1-13-6-20「兄さん、」と、彼女は、徴兵（ちょうへい）袋をフェルナンの肩につけてやりながら言った。1-13-6-21「兄さん。わたしのたった一人のお友だち、どうか死なないで。1-13-6-22この世の中で、わたしを一人ぽっちにしないで。1-13-6-23わたし、いつも泣いているんですもの。1-13-6-24あなたがいなくなったら、わたしほんとの一人ぽっちになるんですもの」。 1-13-6-25出発の際のこうした言葉は、フェルナンにいくらかの希望をいだかせた。1-13-6-26もしダンテスが帰ってこないようなら、メルセデスはいつか自分のものになってくれるにちがいない。1-13-6-27メルセデスは、ただ一人、この素っ裸（すっぱだか）な大地の上に立っていた。1-13-6-28いままでかつて、大地が今日（こんにち）ほど荒涼（こうりょう）なものに見えたためしはなかった。1-13-6-29地平線には、ただ壮大な海があるばかりだった。1-13-6-30涙に泣きぬれ、あの痛ましい物語のなかに出てくる狂女（きょうじょ）のように、彼女が絶えずカタロニヤ村のまわりをさまよい歩く姿が見られていた。 1-13-6-31あるときは、南仏の烈日（れつじつ）の下に立ち止まり、まるで銅像（どうぞう）のように、じっと黙って立ち尽くしては、マルセイユのほうをながめていた。1-13-6-32またあるときは、渚（なぎさ）に腰をおろして、彼女の悩みをそのままの永遠な海の呻（うめ）きに耳をすまし、こうして望みのない待ち焦（こ）がれの気持に代（か）わるがわるさいなまれるより、いっそこのまま前へ『のめり』、われとわが身の重さに引かれて深淵（しんえん）に落ちこみ、そこに呑（の）まれてしまったほうがよくわないかとさえ考えていた。1-13-6-33メルセデスがそれをしなかったのは、それは勇気が不足していたためではなかった。1-13-6-34彼女を助け、彼女を自殺から救ったもの、それはじつに信仰（しんこう）だった。 1-13-6-35カドルッスもまた、フェルナンとおなじように召集（しょうしゅう）された。1-13-6-36だが、彼はフェルナンより八つ（やっつ）年上（としうえ）であり、それに妻帯者（さいたいしゃ）だったため、第三次（だいさんじ）の召集にまわされて、沿岸（えんがん）地方（ちほう）へ送られた。 1-13-6-37老ダンテスは、ただ一縷（いちる）の望みだけに力（ちから）をつけられていたが、その望みも、いまは皇帝の没落とともに失われてしまった。1-13-6-38息子（むすこ）から別れて五ヶ月目の同じ日に、そして息子の拘引（こういん）されたとほとんど同じ時刻（じこく）に、メルセデスの腕（うで）に抱（だ）かれながら最後の息を引き取った。1-13-6-39埋葬（まいそう）の費用は、モレル氏が全部引きうけてやった。1-13-6-40そして病中（びょうちゅう）、老人のこしらえた僅（わず）かばかりの借財（しゃくざい）も、すっかりモレル氏が払ってやった。 1-13-6-41これほどまでの世話（せわ）をするとはそこに親切（しんせつ）以上（いじょう）の何ものかがなければならなかった。1-13-6-42それはすなわち勇気だった。1-13-6-43いまや南仏は『たぎり』立っていた。1-13-6-44たといそれが死にのぞんでのことであろうと、ダンテスのような恐るべきボナパルト党の父親（ちちおや）を助けることなど、それはまさに犯罪（はんざい）だった。

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引用者：2016/6/28　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書