１３（２）ここが踏ん張りどころ

1-13-2-1彼は、ビルフォールが、自分の姿を見るなり『てっきり』ふるえあがるにちがいないと確信しながら、室のなかへ足を踏み入れた。1-13-2-2ところが、事務机の上に肱（ひじ）をつきながら彼を待っている検事を見ると、彼のほうがすっかりふるえあがり、動転（どうてん）させられてしまった。1-13-2-3彼は戸口（とぐち）で立ち止まった。1-13-2-4ビルフォールは、さも誰であるか思い出せないといったようすで船主（ふなぬし）を見た。1-13-2-5やがて、船主が、手のなかで帽子（ぼうし）をいじくりまわしているあいだ、しばらく黙ってじろじろながめていたあとで、「モレルさんでしたな？」と言った。 1-13-2-6「さよう、わたしです」と、船主が答えた。1-13-2-7「どうかこちらへ」。1-13-2-8検事代理は手で鷹揚（おうよう）な身振（みぶ）りをしながら言葉をつづけた。1-13-2-9「どういう御用件（ごようけん）で？」。1-13-2-10「御想像（ごそうぞう）がつきませんか？」と、モレル氏がたずねた。1-13-2-11「どうも。1-13-2-12だが、それはそれとして、わたしの権限（けんげん）に属することでしたらなんなり御相談（ごそうだん）にのることにしましょう」。 1-13-2-13「完全（かんぜん）にあなたのお御管掌（ごかんしょう）に属することなのです」。1-13-2-14「うけたまわりましょう」。1-13-2-15「じつは、」。口を切るとともに船主には落ちつきが立ちもどってきた。1-13-2-16一方（いっぽう）、彼は自分の訴えの正しさと立場（たちば）の明朗（めいろう）さに力（ちから）づけられていた。 1-13-2-17「御記憶（ごきおく）のことと思いますが、皇帝の御上陸（ごじょうりく）がわかる数日（すうじつ）前（まえ）、一人（ひとり）の気の毒な青年（せいねん）、わたしの持ち船の一等運転士を勤（つと）めていた海員のために、お赦（ゆる）しを願いにあがったことがありました。1-13-2-18御記憶（ごきおく）と思いますが、エルバ島との関係で起訴（きそ）された者です。1-13-2-19当時は犯罪であったその関係も、今日（こんにち）では、むしろお賞（ほ）めいただいていいことになりました。 1-13-2-20あなたは当時ルイ十八世にお仕えでした。1-13-2-21あの男をお許しくださらなかったのは、あなたとして当然のお務めでした。1-13-2-22今日のあなたはナポレオン皇帝に仕えておいでです。1-13-2-23で、あなたは、その男をかばってくだすってよろしいはずです。1-13-2-24これもまたあなたのお務めだと思います。1-13-2-25わたしは、あの男がどうなったか、それをおたずねにあがりました」。 1-13-2-26ビルフォールは、自分をおさえようと苦しい努力をした。1-13-2-27「その者の名は？」と、検事が訊（たず）ねた。1-13-2-28「名前をお聞かせ下さい」。1-13-2-29「エドモン・ダンテスです」。1-13-2-30ビルフォールとしては、こうした名前を鼻（はな）に突きつけられるよりは、むしろ決闘（けっとう）を挑（いど）まれ、二十五歩距（へだ）てた向こうから相手（あいて）の弾（たま）を見舞（みま）われるほうがどれほど気が楽だかわからなかった。1-13-2-31だが、彼は眉毛（まゆげ）一本（いっぽん）動かさなかった。 1-13-2-32《この調子なら、》と、ビルフォールは思った。1-13-2-33《あの青年（せいねん）逮捕（たいほ）の一件（いっけん）も、どうやら個人（こじん）問題によるものという非難を受けずにすむらしいぞ》。1-13-2-34「ダンテス？」と、彼は『おうむがえし』に言った。1-13-2-35「エドモン・ダンテスとおっしゃいましたな？」。1-13-2-36「そうです」。1-13-2-37ビルフォールは、手近（てぢか）のケースのなかにあった大きな帳簿（ちょうぼ）を開き、ついでテーブルのところへ行き、テーブルから訴訟（そしょう）記録のあるところへ移って行った。 1-13-2-38そして船主のほうをふりかえりながら、「たしかにお思いちがいはありませんな？」と、いかにも何気（なにげ）ないようすでたずねた。 1-13-2-39もしモレル氏がもっと慧敏（けいびん）で、かつこの事件について、も少し目があいていたとしたら、検事代理が自分の管掌（かんしょう）とは縁（えん）のないこの件について答弁（とうべん）しようとするのを見て、こいつ怪（あや）しいと睨（にら）んだにちがいなかった。1-13-2-40そして、なぜビルフォールが、囚人（しゅうじん）名簿（めいぼ）を見に行けと言わないのか、なぜ監獄長（かんごくちょう）とか県知事（けんちじ）とかにたずねるようにいわないのか、ちょっと不審（ふしん）に思ったにちがいない。 1-13-2-41ところが、ビルフォールの面上（めんじょう）にむなしく恐怖（きょうふ）の色（いろ）を求めていたモレルは、それがぜんぜん認められないとなると、今度は、そこにただ親切だけしか見出（みいだ）さなかった。1-13-2-42ビルフォールの策（さく）は、まさに図（ず）に当ったというべきだった。 1-13-2-43「ええ、」と、モレルは言った。1-13-2-44「おもいちがいはありません。1-13-2-45それに、その男はもう十年このかた知っていて、わたくしのところにきてからも四年になります。1-13-2-46御記憶でしょうか、いまから六週間前、ちょうど今日（きょう）、正しいお取りはからいを願いにあがったと同じように、あの男のために寛大（かんだい）なお取りはからいを願いにきたことがありました。1-13-2-47そのときあなたは、かなりつれないおあしらいをなさり、不機嫌（ふきげん）な返事（へんじ）をお聞かせでした。1-13-2-48ああ、あにしろあのころは、王党の方々（かたがた）はナポレオン党の連中（れんちゅう）にずいぶんつらくおあたりでしたからな！」。

次へ

引用者：2016/6/24　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
ささくら修道会・必読書