５２（９）溶液の毒では見え方が脳卒中

4-52-9-1さて、次（つぎ）の日曜（にちよう）に出（で）かけますと、今度（こんど）はキャベツに、砒素（ひそ）を与（あた）えるかわりに、ストリキニーネを台（だい）にした塩（えん）の溶液（ようえき）、学者（がくしゃ）が『ストリクノス・コルブリーナ』とよんでいるものをかけてやっておりました。4-52-9-2今度は、キャベツは、少（すこ）しも痛（いた）んでいるようには見（み）えませんでした。4-52-9-3したがって、兎（うさぎ）もべつに怪（あや）しまない。4-52-9-4と、五分（ごふん）もたつと、ころりと死（し）んでしまいました。4-52-9-5それを今度は牡鶏（おすどり：＝おんどり）が食（た）べる。4-52-9-6翌日（よくじつ）になると、これもまいってしまいました。 4-52-9-7さて、禿鷹（はげたか）のかわりには、わたしどもがつとめまして、その牡鶏を持（も）って帰（かえ）り、腹（はら）をたち割（わ）ってみたのでした。4-52-9-8すると、どこにもこれといった部分的（ぶぶんてき）の徴候（ちょうこう）は認（みと）められず、ただ総体的（そうたいてき）の徴候だけが見られました。4-52-9-9内臓（ないぞう）のどこの器官（きかん）にも少しも特殊（とくしゅ）の徴候は見られず、神経（しんけい）系統（けいとう）の昂奮（こうふん）だけが見られました。4-52-9-10脳溢血（のういっけつ）の形跡（けいせき）、それ以外（いがい）になにもない。 4-52-9-11つまり牡鶏（おんどり）は、毒（どく）によって死（し）んだのでなく、卒中（そっちゅう）のために死んだのでした。4-52-9-12なるほど、これは鶏社会（にわとり しゃかい）にはほとんど例（れい）のないことでありましょう。4-52-9-13だが、人間社会（にんげん しゃかい）では、きわめて頻繁（ひんぱん）に見（み）られるところのことなのです」。 4-52-9-14夫人（ふじん）は、ますます考（かんが）えこんでゆくらしかった。4-52-9-15「でも、」と、夫人は言った。4-52-9-16「そうしたことが、化学者（ばけがくしゃ）だけにしかできないというのは、なにしろ仕合（しあわ）せなことですわね。4-52-9-17さもないときは、世界（せかい）の人（ひと）の半分（はんぶん）が、他（た）の半分を毒殺（どくさつ）することにもなりましょうから」。4-52-9-18「ま、化学者か、それでなければ、化学（ばけがく）に頭（あたま）を突（つ）っ込（こ）んでいる連中（れんちゅう）だけに、というわけですな」と、モンテ・クリスト伯は、さりげないようすで夫人に答（こた）えた。 4-52-9-19「それに、」と、夫人は、つとめて自分（じぶん）の考（かんが）えから離（はな）れようとしながら言（い）った。4-52-9-20「どれほどうまくやったにしても、罪悪（ざいあく）はやはり罪悪ですわ。4-52-9-21そして、たとい人間（にんげん）の目（め）を逃（のが）れることはできましても、神（かみ）さまのお目を逃（のが）れるわけにはいきません。4-52-9-22東洋人（とうようじん：＝トルコ人、アラビヤ人）は、良心（りょうしん）の点（てん）では、わたくしたちよりずっと平気（へいき）なんでございますのね。4-52-9-23そして、地獄（じごく）なぞと申（もう）すものを、つごうのいいように無（な）いものにしたんでございますわね」。 4-52-9-24「奥（おく）さま、そんなことをお考えになるのは、奥さまのように正直（しょうじき）なお方（かた）にかぎられております。4-52-9-25ところが、そうしたお考えも、いろいろ理屈（りくつ）をつけてやがてお捨（す）てになるべき時（とき）がまいりましょう。4-52-9-26人間（にんげん）の考（かんが）え方（かた）の悪（わる）い一面（いちめん）は、常（つね）に、あのジャン・ジャック・ルソーの皮肉（ひにく）な言葉（ことば）に言（い）い尽（つ）くされているように思われますな。4-52-9-27要（よう）するに『五千里（ごせんり：＝２万キロメートル）向（む）こうのシナ（：＝中国）のお役人（やくにん）だったら、ちょっと指（ゆび）を上（あ）げただけで殺（ころ）してのけられる』（著者註：眼に見えない処にいる者なら、情にこだわることなくなんのわけもなく殺してのけられるの意）という『やつ』でして。 4-52-9-28人（ひと）の一生（いっしょう）は、つまりそうしたことをするために費（つい）やされております。4-52-9-29智慧（ちえ）というものも、そうしたことのために絞（し）められているようなものなのでして。4-52-9-30自分（じぶん）の同類（どうるい）の胸（むね）に突然（とつぜん）短刀（たんとう）を突（つ）っこみにいったり、或（ある）いは、相手（あいて）の男（おとこ）にこの世（よ）の暇乞（いとまご）いをさせようと思（おも）って、さっきお話（はな）し申したような砒素（ひそ）を盛（も）るような人間は、たいして多（おお）くありません。4-52-9-31そうしたことをやる奴（やつ）は、よほど頭（あたま）のどうかしている奴、さもなければ馬鹿（ばか）といったところでしょう。 4-52-9-32そうしたことをするためには、体内（たいない）の血（ち）は三十六度（さんじゅうろくど）に昇（のぼ）り、脈拍（みゃくはく）は九十度（きゅうじゅうど）をかぞえ、霊魂（れいこん）が常軌（じょうき）を脱（だっ）することを必要（ひつよう）とします。4-52-9-33ところが、言語学（げんごがく）で見られますように、一つの言葉を、その意味をいくぶんやわらげたもうたもう一つの同意語（どういご：＝おなじ意味の言葉）にうつして考え、つまり、たんにひとつの邪魔者（じゃまもの）をとりのけるといったくらいのこととして考えてみるといたしましょう。4-52-9-34すなわち、破廉恥（はれんち）な殺人罪（さつじんざい）を犯（おか）したりすることなく、たんに自分（じぶん）の身（み）の上（うえ）から、邪魔（じゃま）にある者（もの）をとりのける、しかもそのために別（べつ）に手荒（てあら）なことをしたり暴力（ぼうりょく）を用（もち）いたりする必要（ひつよう）もなく、また相手（あいて）に特（とく）に苦（くる）しい思（おも）いをさせることもなく、苦しむありさまを見て、自分（じぶん）が文字通（もじどお）り屠殺者（とさつさしゃ）になったような気持（きもち）を味（あじ）わわずに済（す）むことでしたら、はたしてどんなものでしょう。 4-52-9-35血（ち）も流（なが）させず、声（こえ）もたてさせず、もがき苦（くる）しませることもなく、とりわけ、結果（けっか）がすぐ起（お）こるという恐（おそ）ろしさや危険性（きけんし）なしにやってのけられるということでしたら4-52-9-36『社会（しゃかい）の安寧（あんねい）を紊（みだ）すべからず』という人間社会（にんげん しゃかい）の法律（ほうりつ）を、みごとにもぐってのけられるわけです。4-52-9-37東洋人（とうようじん）は、この点（てん）まんまとやってのけております。4-52-9-38東洋人は、『どっしり』かまえた、きわめて冷静（れいせい）な連中（れんちゅう）でして、重大（じゅうだい）な計画（けいかく）ということでしたら、時間（じかん）の問題（もんだい）など、あまり念頭（ねんとう）におきませんから」。 4-52-9-39「でも、良心（りょうしん）というものがございますわ」と、夫人（ふじん）は昂奮（こうふん）に声（こえ）をふるわせ、おし殺（ころ）されたような溜息（ためいき）とともに言（い）った。

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ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
この本は、ささくら修道会の必読書
2017/9/30