５２（３）ペルージャのお医者さま

　５２（３）ペルージャのお医者(いしゃ)さま

4-52-3-1「御記憶（ごきおく）をお助（たす）け申（もう）しましょう」と、伯爵（はくしゃく）が言った。4-52-3-2「なんでも、その日（ひ）は、とても暑（あつ）い日でした。4-52-3-3みなさんは、お祭（まつ）りのため、お迎（むか）えにこられなくなった馬（うま）をお待（ま）ちになっておいででした。4-52-3-4お嬢（じょう）さまは、庭（にわ）の奥（おく）のほうへおいでになり、坊（ぼっ）ちゃんは、鳥（とり）を追（お）ってどこかへお出（で）かけでした」。4-52-3-5「あの鳥、僕（ぼく）がつかまえたのよ、お母（かあ）さま。ねえ、」とエドワールが言った。4-52-3-6「僕、あの尻尾（しっぽ）の羽根（はね）を三本（さんぼん）引（ひ）っこ抜（ぬ）いてやったんですよ」。

4-52-3-7「奥（おく）さま、あなたは葡萄棚（ぶどうだな）のかげにいらっしゃいました。4-52-3-8あなたは、石（いし）のベンチに腰（こし）をおろして、さっき申しあげましたように、お嬢さまと坊ちゃんがどこかへお出かけになったあいだ、誰（だれ）かとかなり長（なが）いことお話（はな）しだったことをお覚（おぼ）えではありますまいか？」。4-52-3-9「そうおっしゃれば、」と、顔（かお）を赧（あか）らめながら夫人（ふじん）が言った。4-52-3-10「思い出しました。4-52-3-11長（なが）い毛（け）の外套（がいとう）」を召（め）した方（かた）と・・・・たしかお医者（いしゃ）さまだったと思いますが」。

4-52-3-12「そのとおり、奥（おく）さま。4-52-3-13そして、その男（おとこ）と申しますのがわたくしだったので。4-52-3-14二週間前（にしゅうかんまえ）からその旅館（りょかん）に泊（とま）っていまして、熱病（ねつびょう）にかかったボーイとか、黄疸（おうだん）にかかった亭主（ていしゅ）とかを治（なお）してやっておりました。4-52-3-15そのため、さも大先生（だいせんせい）かなにかのように思われておりました。4-52-3-16奥さまとは、いろいろと、かなり長いことお話し申しました。4-52-3-17ベルジン（著者註：高名なイタリーの画家。1446-1524）のこと、ラファエルのこと、風俗（ふうぞく）習慣（しゅうかん）のこと、それにあの名高（なだか）いアクワ・トファナ（著者註：毒薬の名）のこと、これについては、ペルッジャで、幾人（いくにん）かの人（ひと）以外（いがい）誰（だれ）も知（し）っているもののないことなどもお話（はな）しいたしました」。

4-52-3-18「おお、そうでした」と、夫人（ふじん）は勢（いきお）いよく答（こた）えた。4-52-3-19だが、そこには一抹（いちまつ）の不安（ふあん）の影（かげ）がうかがわれた。4-52-3-20「どういうことをお話しだったか、詳（くわ）しいことは忘（わす）れました」と、伯爵（はくしゃく）は落（お）ちつきはらって言葉（ことば）をつづけた。4-52-3-21「しかし、ひとつだけ、いまでもはっきり覚（おぼ）えております。4-52-3-22奥さまは、ほかの人たち同様（どうよう）わたくしをお思いちがいになり、わたくしに、お嬢さまのお体（からだ）について御相談（ごそうだん）をおかけでした」。

4-52-3-23「でも、あなたは、ほんとにお医者さまでいらっしゃったではございませんか。4-52-3-24ずいぶん病人（びょうにん）をおなおしになったんでございますもの」。4-52-3-25「奥さま、これがモリエール（著者註：十七世紀におけるフランスの有名な喜劇作家）かボーマルシェ（著者註：十八世紀のフランスの劇作家。『フィガロの結婚』、『ベビルラの理髪師』などの作家）だと、さっそくこうお答え申すところでしょう。4-52-3-26つまり、わたくしが医者でなかったからこそ、わたくしが患者（かんじゃ）を治（なお）すかわりに、患者のほうで治ってくれたというわけでして。4-52-3-27ただ、化学（ばけがく）と自然科学（しぜんかがく）について、そうとう深（ふか）い研究（けんきゅう）をいたしたことだけは申しあげられます。4-52-3-28それとても、要（よう）するに素人（しろうと）程度（ていど）ではございましたが・・・・」。

4-52-3-29ちょうどこの時（とき）、六時（ろくじ）が鳴（な）った。4-52-3-30「あら、六時」と、夫人（ふじん）は目（め）に見（み）えてそわそわしだした。4-52-3-31「バランティーヌさん、お祖父（じい）さまのお食事（しょくじ）ができたかどうか、見にいってちょうだい」。4-52-3-32バランティーヌは立（た）ちあがった。4-52-3-33そして、伯爵のほうへ会釈（えしゃく）すると、なにも言（い）わずに出ていった。4-52-3-34「奥さま、わたくしがおりますので、お嬢（じょう）さまをおさがらせになったのではございませんか？」と、伯爵は、バランティーヌが出てゆくのを待（ま）って言った。

4-52-3-35「まさか」と、夫人は快活（かいかつ）に答（こた）えた。4-52-3-36「じつは、あの気（き）の毒（どく）な祖父（そふ）の命（いのち）をつなぐ、粗末（そまつ）な食事（しょくじ）をさせる時間（じかん）なんでございまして。4-52-3-37お聞（き）きおよびでございましょう、主人（しゅじん）の父（ちち）は、ほんとに気（き）の毒（どく）なありさまでして・・・・」。4-52-3-38「うかがいました。4-52-3-39御主人（ごしゅじん）がお話（はな）しくださいました。4-52-3-40なんでも、中風（ちゅうぶう：病名の一種）におかかりということで」。

4-52-3-41「そうなんでして。4-52-3-42少（すこ）しも体（からだ）を動（うご）かせないんでございますの。-52-3-43霊魂（れいこん）だけが、人間（にんげん）という機械（きかい）のなかで目（め）を覚（さ）ましているのでして。4-52-3-44しかも、いまにも消（き）えそうなランプとでもいったような、淡（あわ）い光（ひかり）をちらつかせているのでして。4-52-3-45ま、ごめん遊（あそ）ばせ、こんな家庭内（かていない）の不仕合（ふしあわ）せのことばかりお耳（みみ）に入（い）れたりいたしまして。4-52-3-46ところであなたさまは、りっぱな化学者（ばけがくしゃ）でおいでになるとか言っておいでになりましたが」。

ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
この本は、ささくら修道会の必読書
2017/9/25