４８（７）ノワルティエ氏の近況

3-48-7-1ビルフォール氏は、このうえもないような驚愕（きょうがく）の色（いろ）を浮（う）かべて、相手（あいて）の顔（かお）をじっと見つめた。3-48-7-2「伯爵（はくしゃく）、あなたは御両親（ごりょうしん）をお持（も）ちですか？」。3-48-7-3「持ちません、この世（よ）にひとりぽっちです」。3-48-7-4「残念（ざんねん）ですな！」。3-48-7-5「とおっしゃるのは！」と、モンテ・クリスト伯がたずねた。3-48-7-6「おそらく、そうした傲慢心（ごうまんしん）が打（う）ちくだかれるような事実（じじつ）をご覧（らん）になっただろうと思（おも）いますので。3-48-7-7あなたは、《死》よりほかには怖（こわ）いものがないとおっしゃいましたな？」。 3-48-7-8「怖いと申したのではありません。3-48-7-9わたくしを止（と）めることができるものは、ただそれあるのみと申しあげただけなのです」。 3-48-7-10「では、《老衰（ろうすい）》は？」。 3-48-7-11「わたくしの使命（しめい）は、年（とし）をとる前（まえ）に成（な）し遂（と）げられているでしょう」。 3-48-7-12「《狂気（きょうき）》は？」。 3-48-7-13「わたくしは、すでに危（あや）うく狂人（きょうじん）になりかけました。3-48-7-14あなたは、Ｎｏｎ　ｂｉｓ　ｉｎ　ｉｄｅｍ（「同じ犯罪につきては再度罰せらるることなし」）という格言（かくげん）を御存（ごぞん）じのことと思います。3-48-7-15これは、犯罪（はんざい）に関（かん）する格言です。3-48-7-16つまりあなたの畑（はたけ）というわけですな」。 3-48-7-17「いや、」と、ビルフォールは言った。3-48-7-18「死や、老衰や、狂気のほかにも、まだ怖ろしいものがります。3-48-7-19たとえば、あの中風（ちゅうぶう：病気の名前）です。3-48-7-20たとい生命（せいめい）には別状（べつじょう）なくても、中風という雷（かみなり）に打（う）たれたが最後（さいご）、何（なに）から何までおしまいです。3-48-7-21なるほど、前（まえ）と変（かわ）らぬあなたであるには違（ちが）いない。3-48-7-22それでいて、もうあなたではないのです。3-48-7-23ちょうどアリエル（真の天使になりそこなった、悪しき天使の名）といったように。 ビルフォールの父、ノワルティエの近況 3-48-7-24あわや天使（てんし）に手（て）が届（とど）きそうになりながら、たちまち一つの命（いのち）のない物体（ぶったい）、キャリバン（著者註：シェークスピアの『あらし』に出る醜怪なる人物）そのままといったような、獣（けもの）にちかいものになります。3-48-7-25いまも申しましたように、これを普通（ふつう）の言葉（ことば）では、単（たん）に中風と申しております。3-48-7-26伯爵、あなたのお考（かんが）えをよく理解（りかい）し、あなたのお説（せつ）を説破（せっぱ）したがっている相手（あいて）が欲（ほ）しいとお考えのときは、どうか邸（やしき）へおいでください。3-48-7-27父（ちち）をごらんにいれましょう。3-48-7-28ノワルティエ・ド・ビルフォールと申しまして、フランス革命（かくめい）の際（さい）には熱烈（ねつれつ）なジャコバン党員（とういん）の一人（ひとり）、きわめて逞（たくま）しい体（からだ）の、大胆不敵（だいたんふてき）な人間（にんげん）でした。 3-48-7-29あなたのように、地球上（ちきゅうじょう）のあらゆる国々を見てきた男ではありませんが、そのうちのもっとも強大（きょうだい）な国（くに）の一つを覆（くつがえ）すために力（ちから）を尽（つく）した男（おとこ）でした。3-48-7-30あなたのように、《神》かとは言わないまでも、自分は《至上（しじょう）の実在（じつざい）》から遣（つか）わされた者であり、《神の摂理（せつり）》とは言わないまでも、自分は《運命》から遣わされた者であると申していました。 3-48-7-31ところがです、脳葉（のうよう）のなかの血管破裂（けっかんはれつ）で、一日（いちにち）はおろか、一時間（いちじかん）はおろか、僅（わず）か一秒（いちびょう）のうちに、すべてを破壊（はかい）されてしまいました。3-48-7-32前日（ぜんじつ）までは、旧（きゅう）ジャコバン党員（とういん）、旧元老院（げんろういん）議員（ぎいん）、旧カルボナリ党員として、断頭台（だんとうだい）をあざ笑（わらい、大砲（たいほう）をあざ笑い、刺客（しきゃく）をあざ笑っていたノワルティエ氏。 3-48-7-33その人の眼（め）には、フランスのごときも、たんに一個（いっこ）の大（おお）きな将棋盤（しょうぎばん：チェス）で、ピオンにしても、トウールにしても、騎士（きし）にしても、女王にしても（著者註：いずれも将棋の駒の名称）、王（おう）さえ追（お）い詰（つ）めればたちまち姿（すがた）を消（け）してしまうもののように思っていたそのノワルティエ氏。3-48-7-34それほど怖（おそ）れられていたノワルティエ氏が、翌日（よくじつ）からはただの《気の毒なノワルティエ》に変（かわ）りました。 3-48-7-35身動（みうご）きのできない一人（ひとり）の老人（ろうじん）、家（いえ）のなかでも、いちばんかよわい孫娘（まごむすめ）のバランティーヌの言いなりしだいといったような老人になってしまいました。3-48-7-36口（くち）のきけない、体（からだ）の冷（ひ）え切（き）った一個の屍（しかばね）、べつに苦（くる）しいところもなしに生（い）きてだけはいるのですが、けっきょく、大（たい）した激変（げきへん）もなしに、物体（ぶったい）が分裂（ぶんれつ）するまでの道程（みちのり）をたどっているにすぎません」。 3-48-7-37「それはそれは！」と、モンテ・クリスト伯が言った。3-48-7-38「そうしたことは、このわたくしの目で見、頭脳（ずのう）から考えて、大（たい）して不思議（ふしぎ）なことではありませんな。3-48-7-39わたくしは、少々（しょうしょう）医学（いがく）の心得（こころえ）を持っております。3-48-7-40そして同業者（どうぎょうしゃ）たちのやるように、生（い）きている人（ひと）、死（し）んでいる人について、幾度（いくど）となくその霊魂（れいこん）をしらべてみました。3-48-7-41ところで霊魂は、《神の摂理》と同じように、たとい目にこそ見えませんが、こころにははっきりわかるものです。 3-48-7-42ソフォクレス、セネカ、聖オーガスチン、ガルなどをはじめ、何百（なんびゃく）という筆（ふで）を執（と）る人々が、或（ある）いは詩（し）に、或いは文章（ぶんしょう）に、いまおっしゃったようなことをのべております。3-48-7-43もっとも、父親（ちちおや）の嘗（な）めている苦（くる）しみが、その子（こ）の心（こころ）にいかに大（おお）きな変化（へんか）をおよぼすかは理解（りかい）できます。3-48-7-44せっかくのお誘（さそ）いというわけですし、一度（いちど）お宅（たく）へあがり、そうしたありさまを拝見（はいけん）いたし、慎（つつ）ましい考（かんが）えを持（も）つための一助（いちじょ）ともしたいと存じます。3-48-7-45お宅（たく）の方々（かたがた）も、定（さだ）めしお嘆（なげ）きのこととお察（さっ）しいたします。 3-48-7-46「おっしゃるとおりでございます。3-48-7-47神（かみ）が、一（ひと）つ大きな入（い）れ合（あ）わせをつけてくださいませんでしたら。3-48-7-48つまり老人が、こうして自分（じぶん）の体（からだ）を引（ひ）きずりながら墓場（はかば）へくだっていきます一ぽう（いっぽう）、二人（ふたり）の子供（こども）が成人（せいじん）してくれましたので。3-48-7-49一人（ひとり）はバランティーヌと申しまして、わたくしとルネ・ド・サン・メランとの初婚（しょこん）によって得（え）ました娘（むすめ）。3-48-7-50他（た）の一人（ひとり）は、あなたが命（いのち）をお助（たす）けくだすった、倅（せがれ）のエドワールでございます」。 3-48-7-51「ところで、そうした神さまからのお入れ合わせを、あなたはどういうふうにお考えです？」と、モンテ・クリスト伯がたずねた。3-48-7-52「こう思っております。3-48-7-53つまり、父は血気（けっき）にはやりまして、たとい人間界（にんげんかい）の掟（おきて）にはそむかなかったにしたところで、神さまの掟にそむくようなあやまちを犯（おか）しました。3-48-7-54それで神さまは、ただ一人（ひとり）の人間（にんげん）だけに罰（ばつ）をおとどめになるため、父（ちち）一人（ひとり）をお打（う）ちになったというわけでした」。 3-48-7-55モンテ・クリスト伯は、口（くち）にこそ微笑（びしょう）をよそおっていたが、心（こころ）のなかでは恐（おそ）ろしい憤怒（ふんぬ）の叫（さけ）びをあげていた。3-48-7-56もし、この叫びがビルフォールの耳（みみ）にきこえたら、おそらく逃（に）げ出（だ）したにちがいないなかった。3-48-7-57「では、失礼（しつれい）いたします」と、検事総長（けんじそうちょう）が言った。3-48-7-58彼は、すでに立ち上がっていて、そのまま話していたのだった。 3-48-7-59「おいとまいたします」と、検事総長が言った。3-48-7-60お目にかかれて、この上なく重畳（ちょうじょう：よいことが重なって、この上なく満足なこと）に思っております。3-48-7-61このことは、もっと御昵懇（ごじっこん）になれたあかつき、おそらく喜（よろこ）んでいただけることと存（ぞん）じますが。3-48-7-62と申しますのは、このわたくしも、さほどつまらない人間ではございませんので。3-48-7-63それに家内（かない）も、あなたさまのことを、すでに親（した）しいお友（とも）だちのように考えております」。3-48-7-64伯爵は頭（あたま）をさげた。3-48-7-65そして、書斎（しょさい）の戸口（とぐち）のところまでだけ送（おく）っていった。3-48-7-66ビルフォールは、二人の下僕（げぼく）のみちびくままに、馬車（ばしゃ）のほうへ歩（ある）いていった。 3-48-7-67主人（しゅじん）がちょっと合図（あいず）をすると、下僕はかしこまって扉（とびら）を開（あ）けた。3-48-7-68検事総長の姿（すがた）が見えなくなると、「さて、」と、モンテ・クリスト伯は、むすぼれた胸（むね）のなかから、やっと吐息（といき）をもらしながら言った。3-48-7-69「もうあんな毒素（どくそ）はたくさんだ。3-48-7-70あれを胸いっぱい吸（す）いこまされては、解毒剤（げどくざい）でものまなければ」。3-48-7-71こう言いながら、彼はベルを一度（いちど）鳴（な）らして、「奥（おく）さんのところへいくからな」と、アリに言った。3-48-7-72「それに、三十分（さんじゅっぷん）したら、馬車の用意（ようい）をしてもらおう」。

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ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/9/15