４３（３）そこにあの人が倒れて

　４３（３）そこにあの人(ひと)が倒(たお)れて

3-43-3-1月（つき）は、いま自分（じぶん）を呑（の）みにかかっている雲（くも）の海（うみ）にたいして、空（むな）しい争（あらそ）いをつづけていた。3-43-3-2暗（くら）い雲の波（なみ）は、ほんの一（いっ）とき、月の光（ひかり）に照（て）らされはしたが、やがて、さらに暗澹（あんたん）とした無限（むげん）の闇（やみ）に吸（す）い込（こ）まれていった。3-43-3-3家令（かれい＝この場合はベルツッチオ）は左（ひだり）に折（お）れようとした。3-43-3-4「いやいや、」、モンテ・クリスト伯は言った。3-43-3-5「庭（にわ）みち伝（つた）いにいって見ても仕方（しかた）がない。3-43-3-6ここにきれいな芝生（しばふ）がある。3-43-3-7これを真直（まっすぐ）にいって見よう」。

3-43-3-8ベルツッチオは、額（ひたい）に流（なが）れる汗（あせ）を拭（ふ）きながら、言われるままに従（したが）った。3-43-3-9だが、あいかわらず、左の方へ曲（まが）ってゆこうとした。3-43-3-10モンテ・クリスト伯は、それとは反対（はんたい）に、右（みぎ）の方（ほう）へ折（お）れていった。3-43-3-11茂（しげ）みのあるところまでくると、彼（かれ）はぴたりと足（あし）を止めた。3-43-3-12家令は、もうもうがまんできなくなっていた。3-43-3-13「旦那（だんな）さま、おどきくださいまし！」と、彼は叫んだ。3-43-3-14「おねがいでございます。3-43-3-15おどきくださまし。3-43-3-16ちょうどそこのところでございました」。

3-43-3-17「そこのところとは？」。
3-43-3-18「そこにあの人がたおれたのでございます」。
3-43-3-19「ベルツッチオ、」と、モンテ・クリスト伯（はく）は笑（わら）いを浮（う）かべながら言った。3-43-3-20気（き）をしっかりもってもらおう。3-43-3-21ここは、サルティーヌやコルトではないんだからな。3-43-3-22ここは、コルシカの藪（やぶ）のなかではなく、イギリス風（ふう）の庭園（ていえん）だ。3-43-3-23なるほど荒（あ）れてはいる。3-43-3-24だからと言って、有（あ）りもしないでたらめは言わずにほしいな」。3-43-3-25「旦那さま、そこにおいでになってはいけません！3-43-3-26そこにおいでになってはいけません、おねがいでございます」。3-43-3-27「どうやら気（き）でもちがったと見える、ベルツッチオ」と、伯爵は冷（ひや）やかに言ってのけた。

3-43-3-28「そうだとしたら、あらかじめ言（い）っといてもらおう。3-43-3-29とんでもないことにならない前に、癲（てん：正気でない）狂（きょう）院（いん）に入れさせなければならないから」。3-43-3-30「おお！旦那さま」、ベルツッチオは、頭（あたま）を振（ふ）り、両手（りょうて）を合（あわ）せた。3-43-3-31もし、伯爵しして、さらに興味（きょうみ）の深（ふか）い考（かんが）えに心（こころ）を奪（うば）われ、この小心（しょうしん）な男（おとこ）のちょいとした言葉（ことば）のはしにも大（おお）きな注意（ちゅうい）をそそぐことを忘（わす）れていたら、おそらく笑いだしたにちいがいなかった。3-43-3-32「おお！旦那さま、そのとんでもないことが起（お）こったのでございます」。

3-43-3-33「ベルツッチオ、」と、伯爵は言った。3-43-3-34「お前（まえ）は、いろいろな身振（みぶ）りをしては腕（うで）を振りしぼり、まるで悪魔（あくま）がとりついて離（はな）れない人間（にんげん）とでもいったように、眼を『きょろ』つかせている。3-43-3-35ところで、わたしは、いつも考えているのだが、いちばん人間（にんげん）に剛情（ごうじょう）に取（と）りついて離（はな）れない悪魔は、秘密（ひみつ）という悪魔だ。3-43-3-36わたしは、お前がコルシカ生（う）まれということを知っていた。3-43-3-37お前に、なにか陰気（いんき）なところがあって、いつも昔（むかし）の仇討（あだう）ちとでもいったようなものを考（かんが）えつづけていることも知（し）っていた。3-43-3-38だからわたしは、お前をイタリーへいかせた。3-43-3-39というのは、イタリーでは、そうしたことがべつにめずらしいことではないのだから。3-43-3-40ところが、このフランスでは、人殺（ひとごろ）しという『やつ』はきわめて悪趣味（あくしゅみ）なものとされている。3-43-3-41そして、それを調（しら）べるための憲兵（けんぺい）もいれば、処刑（しょけい）を申（もう）し渡（わた）すための裁判官（さいばんかん）もいる。3-43-3-42さらに、それを復讐（ふくしゅう）をするための死刑台（しけいだい）という『やつ』さえある」。

3-43-3-43ベルツッチオは、両手（りょうて）を組（く）み合（あ）わせた。3-43-3-44だが、こうしたさまざまな動作（どうさ）をつづけながらも、彼は、手に、明りをしっかり握（にぎ）っていたので、その光によって、まったく面（おも）がわりのした顔（かお）が照（て）らし出（だ）されていた。

ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/7/17