４１（５）メルセデスの動揺

　４１（５）メルセデスの動揺(どうよう)

3-41-5-1モンテ・クリスト伯の言った言葉に誤（あやま）りはなかった。3-41-5-2彼（かれ）の姿（すがた）がモルセール伯爵邸（はくしゃく・てい）の玄関（げんかん）にあらわれるやいなや、一人（ひとり）の下僕（げぼく）が、いきなり柱廊（ちゅうろう）のかげから飛び出してきた。3-41-5-3それは、ローマで、二人（ふたり）の青年（せいねん）のところへ、伯爵の名刺（めいし）を持って、いずれ伯爵がお訪（たず）ねに上（あ）がるからと言いにきたことのある男（おとこ）だった。3-41-5-4こうして、モンテ・クリスト伯が邸（やしき）の前の階段（かいだん）の上に立ったとき、馬車はすでに主人（しゅじん）を待ち受けていた。

3-41-5-5それはケレール（著者註：当時有名な馬車製造業者）製の箱馬車（はこばしゃ）だった。3-41-5-6そして、その馬車には、パリ通の人たちの誰もが知っているように、昨日（きのう）まで、ドレーク（著者註：当時有名な調馬師兼馬商）が一万八千フラン（読者註：概算１８００万円）でも手離（てばな）そうとしなかった馬がつながれていた。3-41-5-7「宅（たく）までお出（い）でくださるようには、わざとおすすめ申しません」と、伯爵はアルベールに言った。3-41-5-8「なにしろ、俄（にわか）づくりの家なのでして。3-41-5-9もっとも、御承知（ごぞんじ）のことと思いますが、俄（にわか）づくりにかけましては、ちょっと評判（ひょうばん）を取った人間（にんげん）でして。3-41-5-10一日（いちにち）だけ、お待ち願うことにいたしましょう。3-41-5-11そのうえでお招（まね）きします。3-41-5-12せめて、主人役（しゅじんやく）として、おもてなしする自信（じしん）も出てくることと思いますから」。

3-41-5-13「伯爵、一日だけとおっしゃいましたが、お手並（てな）みはすっかり承知（しょうち）しております。3-41-5-14おそらく、拝見（はいけん）させてくださるのは、もはや普通（ふつう）のお邸（やしき）とはちがって、御殿（ごてん）とでもいったようなものでございましょう。3-41-5-15じっさい、精霊（せいれい）とでもいったようなものを、お使いになっておいでのようです」。3-41-5-16「そう思っていていただきましょうか」と、伯爵は、壮麗（そうれい）な馬車の、『びろうど』張（ば）りの踏（ふ）み台（だい）に足（あし）をかけながら言った。3-41-5-17「そうだとしたら、ご婦人（ふじん）たちの前に出るときにも、さだめし役（やく）に立ってくれるでしょうが」。

3-41-5-18こう言って、彼は『ひらり』と車中（しゃちゅう）に身を置いた。3-41-5-19扉（とびら）はすぐに閉（し）められた。3-41-5-20そして、車（くるま）はたちまち矢（や）のようにい走り出した。3-41-5-21だが、伯爵は、夫人を残（のこ）してきた客間（きゃくま）の窓掛（まどかけ：カーテン）が、微（かす）かに揺（ゆ）れているのを見逃（みのが）さなかった。

3-41-5-22母のもとに帰ったアルベールは、母が、居間の『びろうど』張りの大きな肘掛（ひじかけ）椅子（いす）に身を埋（う）めているのを見出（みいだ）した。3-41-5-23室（しつ）のなかは、もう薄暗（うすぐら）くなっていた。3-41-5-24そして、そこここに、調度（ちょうど）の額縁（がくぶち）の金色（きんいろ）だけが光っていた。3-41-5-25伯爵夫人（＝メルセデス）の顔は、円光（えんこう）のように髪を包（つつ）んだベールの雲（くも）にかすんでいて、アルベールには、それとははっきり見えなかった。3-41-5-26だが、声だけは、すっかり変わっているようだった。

3-41-5-27花瓶（かびん）のなかの薔薇（ばら）や、ヘリオトロープの香りのなかには、どうやらセル・ド・ビネーグル（気つけ薬）の、咽喉（のど）を刺（さ）すような香（かおり）が感じられた。3-41-5-28はたして、彫刻（ちょうこく）のある暖炉棚の上には、伯爵夫人の小瓶（こびん）が、鮫革（さめがわ）のサックから抜き出されたまま載（の）っていて、それが、青年の不安な注意を惹（ひ）きつけた。3-41-5-29「おかげんが悪いのですか？」と、室にはいるなり、青年は叫んだ。3-41-5-30「僕のいなかった間（あいだ）に、気分（きぶん）が悪くおなりでしたか？」。3-41-5-31「わたし？いいえ、アルベール。3-41-5-32でも、薔薇（ばら）とか、オレンジの花（はな）とかは、暑（あつ）くなりはじめのころ、まだその暑さに体（からだ）が慣（な）れていないころ、とても強く匂（にお）うんですもの・・・・」。

3-41-5-33「では、お母さま、」と、アルベールはベルに手をかけて「花を次の間（ま＝部屋）へ下（さ）げさせましょう。3-41-5-34どうもおかげんが悪いようです。3-41-5-35さっきも、室へはいっておいでのとき、とても悪い顔色をおしておいででした」。3-41-5-36「顔色が悪かったって？」。3-41-5-37「でも、お顔の色の青さが、とても似合（にあ）っておいででした。3-41-5-38でも、お父さんも僕（ぼく）も、ちょっとびっくりしましたが」。3-41-5-39「お父さまが、あなたにそんなことをおっしゃった？」と、せきこみながら夫人にたずねた。3-41-5-40「いいえ。3-41-5-41でも、お母さまに、そう言っておいでだったじゃありませんか？」。3-41-5-42「おぼえていません」と、夫人が言った。3-41-5-43そこへ、アルベールのベルを聞いて、一人の下僕（げぼく）がはいってきた。3-41-5-44「この花を、控（ひか）えの間（ま）か、化粧室（けしょうしつ）へ下（さ）げてもらおう」と、アルベールが言った。3-41-5-45「お母さまが気分がお悪いようだから」。3-41-5-46下僕は、言いつけられたとおりにした。3-41-5-47花が下げられてしまうまで、しばらくのあいだ沈黙（ちんもく）がつづいた。

ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/7/13