４１（４）パリのメルセデス

3-41-4-1「おお！母（はは）がまいりました」と、子爵（ししゃく）が叫んだ。3-41-4-2急（いそ）いで振（ふ）り返（かえ）ったモンテクリスト伯は、夫（おっと）がはいってきたのと反対（はんたい）の戸口（とぐち）から、モルセール夫人（ふじん）のあらわれるのを見てとった。3-41-4-3夫人は、モンテ・クリスト伯が自分のほうを振り向（む）いたとき、身動（みうご）きもせず、青（あお）ざめた顔（かお）をして、われにもあらず金色（きんいろ）に塗（ぬ）った戸（と）の『かまち』にかけていた腕（うで）をおろした。3-41-4-4夫人は、しばらく前からそこに立っていて、このイタリーからの客（きゃく）の口（くち）から言われた、最後（さいご）の言葉（ことば）を聞（き）いたのだった。 3-41-4-5客は、立（た）ちあがって、慇懃（いんぎん）に伯爵夫人に挨拶（あいさつ）をした。3-41-4-6夫人も、なにも言わずに、礼儀（れいぎ）正しく身をかがめた。3-41-4-7「お前、どうしたんだ？」と、伯爵（＝モルセール）がたずねた。3-41-4-8「この客間が蒸（む）し暑（あつ）いので、気分（きぶん）でも悪（わる）くなったのかね？」。3-41-4-9「お母さん、御気分が悪いのですか？」と、子爵は、メルセデスの方（ほう）へ駆（か）け寄（よ）りながら叫んだ。3-41-4-10夫人は微笑（びしょう）しながら、二人へ向かって会釈（えしゃく）した。 3-41-4-11「いいえ」と、夫人は言った。3-41-4-12「この方（かた＝モンテ・クリスト伯）がおいでくださいませんでしたら、わたしどもはいまごろ悲嘆（ひたん）にくれていたことでございましょう。3-41-4-13そのお方にお目にかかれまして、心がふるえたのでございます。3-41-4-14あなた、」と、夫人は、王妃（おうひ）のようなおごおそかな態度（たいど）で進（すす）みよりながら言った。3-41-4-15「おかげで、倅（せがれ）は命拾（いのちびろ）いさせていただきました。3-41-4-16あなたさまの御親切（ごしんせつ）にたいして、神さまに御加護（ごかご）をお祈り申しております。3-41-4-17そして、こうしてお礼申しあげられる機会をお与えくださいましたことについて、これまでにもあなたさまのために御加護（ごかご）をお祈り申しておりましたと同じ気持で、つまり心（こころ）の底（そこ）から、厚（あつ）く感謝（かんしゃ）いたしております」。 3-41-4-18モンテ・クリスト伯は、さらに慇懃に身をかがめた。3-41-4-19その顔は、夫人の顔よりも青ざめていた。3-41-4-20「奥さま、」と、モンテ・クリスト伯は言った。3-41-4-21「伯爵からも奥さまからも、きわめて些細（ささい）なことにたいして、身にあまる御挨拶をいただきました。3-41-4-22一人（ひとり）の人（ひと）を助ける、お父上の御心配（ごしんぱい）をのぞき、お母上（ははうえ）のお嘆（なげ）きを払（はら）うということ、それはなにも善（よ）いことをしたことにはあたりません。3-41-4-23人として、なすべきことをいたしたまでのことなのです」。3-41-4-24いかにもやさしい、いかにもへりくだったこの言葉を聞きながら、夫人は沈痛（ちんつう）な声（こえ）で答（こた）えた。 3-41-4-25「あなたさまのようなお方（かた）とお近づきになれまして、倅（せがれ）もなんという仕合（しあわ）せ者でございましょう。3-41-4-26そうさせてくださいました神さまに、ただただお礼を申しあげております」。3-41-4-27こう言った夫人は、かぎりない感謝（かんしゃ）の色（いろ）を浮（う）かべて、美（うつく）しい眼（め）を天（てん）のほうへあげた。3-41-4-28モンテ・クリスト伯は、そこに二滴（にてき）の涙（なみだ）がふるえているように思った。3-41-4-29夫の伯爵（モルセール）は、夫人のほうへ歩みよった。 3-41-4-30「わたしは、どうしても伯爵に失礼（しつれい）して出かけなければならない。3-41-4-31いまもお詫（わび）びを申しあげておいたが、お前からもよろしく申しあげてくれるように。3-41-4-32会議（かいぎ）は二時（にじ）にはじまるのだが、もう三時（さんじ）だ。3-41-4-33それに、わたしは演説（えんぜつ）をしなければならないから」。3-41-4-34「いってらっしゃいまし、お出かけのあとは、わたくしがお相手（あいて）をいたしましょう」と、夫人は、感動（かんどう）したままの声で言った。3-41-4-35そして、モンテ・クリスト伯のほうを向いて、「伯爵さま、」と、言葉をつづけた。3-41-4-36「このままでおいでいただけましょうか？」。 3-41-4-37「ありがとうございます。3-41-4-38おすすめはありがたく存じますが、じつは今朝（けさ）、御門前（ごもんぜん）ではじめて車から降（お）りたようなしだいでして。3-41-4-39パリでの住居（じゅうきょ）がどうなっているかも知らず、ただその場所だけを存じているにすぎません。3-41-4-40大（たい）したことでもございませんが、ちょっと気にかかるというわけでして」。3-41-4-41「では、また改（あらた）めておいでくださいましょうか？そのお約束（やくそく）が願（ねが）えましょうか？」。3-41-4-42モンテクリスト伯は、なにも答えずに会釈（えしゃく）した。3-41-4-43だが、その態度（たいど）から、承諾（しょうだく）したことがうかがわれた。 3-41-4-44「それではお引きとめ申しません」と、夫人が言った。3-41-4-45「お礼申しあげたい心持（こころもち）が、かえってぶしつけであったり、御迷惑（ごめいわく）をかけてもと存じますから」。3-41-4-46「伯爵、」と、アルベールが言った。3-41-4-47「御迷惑でなかったら、ローマでのおもてなしのお返しをパリでさせていただきたいと思いますが。3-41-4-48お乗物（のりもの）がととのいますまで、わたしの馬車（ばしゃ）を御用立（ごようだ）てしましょう。3-41-4-49「子爵、その御親切は感謝しますが、」と、モンテ・クリスト伯は言った。 3-41-4-50「じつは、ベルツッチオが、わたしの与えてやりました四時間（よじかん）半（はん）の間に、馬車をととのえて御門前（ごもんぜん）までまわしてきていると思いますので」。3-41-4-51こうした伯爵の遣（や）り口（くち）には、アルベールも慣（な）れていた。3-41-4-52伯爵が、ネロ（著者註：ローマの皇帝）のように、不可能なことばかりをねらうことも知っていた。3-41-4-53だから、べつにびっくりもしなかった。3-41-4-54そして、伯爵の命令（めいれい）というものが、どの程度（ていど）に実現（じつげん）されるか、それを見たいと思いながら、門（もん）のところまで送（おく）って出た。

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ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/7/13