４１（３）モルセール伯爵

　４１（３）モルセール伯爵(はくしゃく)

3-41-3-1客間（きゃくま）のいちばん人目（ひとめ）を惹（ひ）くところにも、一枚（いちまい）の肖像（しょうぞう）がかけられていた。3-41-3-2三十五から三十八といった男の肖像、高位（こうい）を示す二列（にれつ）になったよじり房（ふさ）の肩章（けんしょう：制服や礼服の肩につけて官職や階級を示すしるし）のついた将官（しょうかん）の軍服（ぐんぷく）をつけ、頸（くび）には勲二等（くん・にとう）をあらわすレジオン・ドヌールの綬（じゅ）をかけ、右の胸には、ソーブール章の勲一等（くんいっとう）を、左の胸には、シャルル三世章（さんせいしょう）の大勲位（だいくんい）をつけていた。3-41-3-3それから察（さっ）するところ、肖像の主（ぬし）は、ギリシャ、スペインの両戦役（りょう・せんえき）に出征（しゅっせい）したか、或（ある）いは、これほどの勲章（くんしょう）をもらうために、その両国（りょうこく）にあって、なにか大きな外交的（がいこうてき）な使命（しめい）を果たしたものと思われた。

3-41-3-4モンテ・クリスト伯は、この肖像にたいしても、前のものに劣（おと）らぬほどの注意（ちゅうい）をこめて吟味（ぎんみ）していた。3-41-3-5そうしているところへ、横手（よこて）のドアが開いて、突然（とつぜん）モルセール伯爵が現われた。3-41-3-6伯爵は、四十から四十五といった年齢（ねんれい）だったが、少なくも五十くらいいには見えていた。3-41-3-7その黒い鬚（ひげ）と眉毛（まゆげ）とは、軍人（ぐんじん）ふうに角刈（かくが）りにした半（なか）ば白くなった頭髪（とうはつ）とともに、ふしぎにきわだって見えていた。3-41-3-8平服（へいふく）を着て、ボタン穴には略綬（りゃくじゅ）だけが見えていたが、並（なら）べられた色さまざまの綬（じゅ）から察したところ、いかにも勲章をたくさんもっていることがうかがわれた。

3-41-3-9伯爵は、かなり品（ひん）のいい歩きぶりで、いかにも慇懃（いんぎん）なようすではいってきた。3-41-3-10モンテ・クリスト伯は、自分のほうからは一歩（いっぽ）も歩かず相手（あいて）の近（ちか）づいてくるのをながめていた。3-41-3-11眼をじっとモルセール伯の面上（めんじょう）にそそぎ、両足（りょうあし）を、まるで床（ゆか）に釘（くぎ）づけにされたとでもいうようだった。3-41-3-12「お父さま、」と、青年（せいねん）は言った。3-41-3-13「モンテ・クリスト伯爵を御紹介（ごしょうかい）いたします。3-41-3-14いつかお話しした、あの難儀（なんぎ）な場合にお目にかかった、ご親切（しんせつ）な方（かた）でございます」。

3-41-3-15「ようこそお出（で）くださいました」と、モルセール伯は、微笑（びしょう）を浮（う）かべながらモンテ・クリスト伯に会釈（えしゃく）した。3-41-3-16「一粒種（ひとつぶだね：一人っ子）の跡取（あとと）り息子をお助けくださいましたことについて、一家（いっか）は永久（えいきゅう）に御恩（ごおん）に感謝いたしております」。3-41-3-17こう言いながら、伯爵は、モンテ・クリスト伯に向かって肘掛（ひじかけ）椅子（いす）を指（さ）し、自分は窓（まど）に向かって腰をおろした。3-41-3-18モンテ・クリスト伯は、伯爵の示した椅子に腰をおろしながら、大きな『びろうど』の窓掛のかげになるべく身をかくすようにした。3-41-3-19そして、疲労（ひろう）と心痛（しんつう）とを浮かべた伯爵の顔の上、年とともにあらわれた皺（しわ）の一つ一つに秘（ひ）められていた苦（くる）しい悩（なや）みの数々を読みとろうとした。

3-41-3-20「倅（せがれ）から、おいでくださると知らせてまいりましたとき、ちょうど家内（かない：妻）は化粧（けしょう）半（なか）ばでございました。3-41-3-21ほどなくおりてまいりましょう。3-41-3-22十分（じゅっぷん：時間）もいたしましたら、出てまいると思います」。3-41-3-23「パリにつきましたその日のうちに、こうして噂（うわさ）に劣（おと）らぬ御勲功（ごくんこう）をお持ちの方にお目にかかれて、身に余（あま）る光栄（こうえい）に思っております。3-41-3-24運命（うんめい）も、伯爵にばかりは、その誤（あやま）りを犯（おか）すことができなかったように思われますな」と、モンテ・クリスト伯は言った。3-41-3-25「しかし、幸運（こううん）は、いまもなおミチッジャの野とか、アトラスの連山（れんざん）あたりで、伯爵に捧（ささ）げるための元帥（げんすい）杖（つえ）を持ってお待ちしているのではありますまいか？」。

3-41-3-26「いや！」と、いささか顔をあからめながら伯爵（モルセール）が答えた。3-41-3-27「ただいまは軍籍（ぐんせき）を退（しりぞ）いております。3-41-3-28わたしは、王政復古（おうせい・ふっこ）の折（おり）、貴族（きぞく）に任（にん）ぜられ、初（はじ）めて戦役（せんえき）に出征（しゅっせい）して、ブールモン元帥（げんすい）の麾下（きか）で戦いました。3-41-3-29したがって、さらに高い指令権（しれいけん）を手に入れることも、望めば得られたわけでして、いまでも直系（ちょっけい）の王さまが王位（おうい）についておいででしたら、そんなことになったかわかりません。

3-41-3-30ところが、七月（しちがつ）革命（かくめい）というやつは、あまりに華々しいものであったことから、どうやら恩義（おんぎ）などは忘れてしまったらしいのでした。3-41-3-31そして、帝政時代（ナポレオン皇帝）のものでないかぎり、あらゆる功労はまったくう不問（ふもん）にい附（ふ）せられました。3-41-3-32そこでわたしは辞職（じしょく）しました。3-41-3-33何しろ、戦場（せんじょう）で肩章（けんしょう）を手に入れたものには、『つるつる』滑（すべ）る大広間（おおひろま）での駈引（かけひ）きは、なんとも苦手（にがて）というわけでして。3-41-3-34剣（けん）を棄（す）てたわたしは、今度（こんど）は政界（せいかい）にはいりました。3-41-3-35いまは産業（さんぎょう）に身をささげ、実際（じっさい）に役立（やくだ）つ技術（ぎじゅつ）方面（ほうめん）の研究（けんきゅう）をやっております。3-41-3-36軍籍（ぐんせき）に在（あ）った二十年間、そうした希望（きぼう）をもっていながら、暇（ひま）がないのでそれができずにいたのでした」。

3-41-3-37「なるほど、そういうお考えの方がおいでだからこそ、お国が『よそ』の国よりすぐれているというわけですな」と、モンテ・クリスト伯が、答えた。3-41-3-38「りっぱな家の貴公子（きこうし）として生まれ、莫大（ばくだい）な富を擁（よう）しておいでになりながら、ただの兵士から昇給（しょうきゅう）して行こうと御決心なすったことは、まさに類（るい：たぐい）の少ないことでしょう。3-41-3-39それから将軍におなりになり、フランスの大侯（たいこう）となり、レジオン・ドヌールの勲二等（くんにとう）にまでおなりになった後、またもや、他日（たじつ）人類（じんるい）のために役立つ以外、なんのむくいもなく、希望もおありにならないようなこうした新しいお仕事をおはじめになるとは・・・・ああ、お見上げ申しました。3-41-3-40いや、それどころか、じつに崇高（すうこう）なこととさえ思っております」。

3-41-3-41アルベールは、驚（おどろ）きの色（いろ）を浮（う）かべながらモンテ・クリスト伯のほうをながめ、その言葉を聞いていた。3-41-3-42それは、これほど感激（かんげき）に満（み）ちた言葉が、これまでモンテ・クリスト伯の口（くち）から発（はっ）せられているのを聞いたことがなかったからのことだった。

3-41-3-43「情（なさ）けないことには、」と、モンテ・クリスト伯は、自分の言葉に、伯爵（モルセール）が、目に見えぬほどの曇（くも）りを額（ひたい）に浮（う）かべたのを消（け）そうとでもするかのように言葉をつづけた。3-41-3-44「これが、イタリーだと、まったくべつでございますな。3-41-3-45わたしどもは、家柄（いえがら）と身分（みぶん）にまかせて歳（とし）をとり、いつも変（かわ）わらぬ葉を茂（しげ）らせ、いつも変わらぬ幹（みき）を保（たも）ち、多くの場合、いつも変わらぬ無能（むのう）さのままで、老（お）い朽（く）ちていってしまうのですから」。

3-41-3-46「しかし、」と、伯爵（モルセール）は答えた。3-41-3-47「あなたのような御器量（ごきりょう）の方が、イタリーを祖国（そこく）となさるというのは不当（ふとう）ですな。3-41-3-48フランスこそ、あなたをお迎えいたしましょう。3-41-3-49それをお受けになりますまいか？3-41-3-50フランスは、あらゆる方々（かたがた）に、決して、忘恩（ぼうおん）の態度などはとりますまい。3-41-3-51たとい、国民にたいしてつらくあたることがあったにせよ、他国（たこく）の方々（かたがた）にたいしては、ひろい心でお迎（むか）えするのが常（つね）ですから」。

3-41-3-52「お父（とう）さん、」と、アルベールは微笑を浮かべながら言った。3-41-3-53「あなたは、モンテ・クリスト伯爵を御存知ないから、そんなことをおっしゃるのですよ。3-41-3-54伯爵は、御満足（ごまんぞく）を、この世（よ）の外（そと）に求（もと）めておいでなのです。3-41-3-55栄誉（えいよ）などは、少しも望んではおられません。3-41-3-56ただ旅券（りょけん）の上に書くためだけに、勲爵（くんしゃく）をもっておいでなんです」。3-41-3-57「いや、そのお言葉こそ、わたしにとって、いままでかつて言われたことのなかった、きわめて当ったお言葉のように思われますな」と、モンテ・クリスト伯が答えた。3-41-3-58「あなたは、御自分の将来をまったく自由にお選びでした」と、モルセール伯は、ためいきをつきながら言った。3-41-3-59「しかも、きわめて清浄（せいじょう）な途（みち）をお選（えら）びでした」。

3-41-3-60「おっしゃるとおり」と、モンテクリスト伯は、画匠（がしょう）もその筆（ふで）をすて、心理学者（しんりがくしゃ）もその解釈（かいしゃく）に望（のぞ）みを断（た）つであろうと思われるような微笑でこれに答えた。3-41-3-61「もしお疲れでないようでしたら、」と、モルセール伯はまさに、モンテ・クリスト伯の態度（たいど）に魅（み）せられたように言った。3-41-3-62「これから、議会（ぎかい）へお供（とも）をさせていただこうかとお思いますが。3-41-3-63今日は、いまの元老院議員というものを御存じでない方々にとって、なかなかおもしろい会議がありますのですが」。3-41-3-64「いずれ改めて、そうお願いができたらと思っております。3-41-3-65今日のところは、伯爵夫人にご紹介いただける楽しみがあります。3-41-3-66お待ちすることにいたしましょう」。

ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/7/12