４０（３）伯爵の信条について

3-40-3-1「それは簡単（かんたん）なことなのでして、」と、伯爵（はくしゃく）が答えた。3-40-3-2「わたしは、あの有名なバンパという人間を、じつは十年も前から知っていました。3-40-3-3まだ年（とし）もいかない羊飼（ひつじかい）をしていた時分（じぶん）、道を教えてくれた礼（れい）として、いくらだったか忘れましたが、金（かね）をやったことがありました。3-40-3-4ところが、あの男は、もらいっぱなしにはできないといって、自分の彫刻(（ちょうこく）のついた短剣（たんけん）を一（ひと）ふりくれました。3-40-3-5これは、わたしの武器のコレクションにあったのを、お目にかけたと思いますが。3-40-3-6その後、二人の縁（えん）を結（むす）んだそうした贈物（おくりもの）のことを忘（わす）れたのか、それともわたしの顔を見忘（みわす）れたか、やつめ、わたしを捕（つか）まえようとしました。 3-40-3-7ところが、わたしのほうで、十二人の手下（てした）もこめて、彼をつかまえてやったのでした。3-40-3-8犯人（はんにん）の処分（しょぶん）にかけては手っ取り早いのが有名（ゆうめい）で、しかも相手が彼とあっては、なおさら手っ取り早く片づけるにちがいないローマの官憲（かんけん）に引き渡すこともできたのですが、わたしは、それをしませんでした。3-40-3-9わたしは、あの男と、その手下を、そのままにがしてやりました」。3-40-3-10「二度とそんなことを仕出（しで）かさないと、条件をおつけになったでしょうな？」と、新聞記者（しんぶんきしゃ）は、笑いながら言った。3-40-3-11「そして、やつらは、その約束（やくそく）に忠実（ちゅうじつ）だったというのでしょう」。 3-40-3-12「いや、」と、モンテ・クリスト伯は答えた。3-40-3-13「ただ、わたしと、わたしに関係のある人たちには手を出さないという条件だけをつけました。3-40-3-14わたしの申しあげることは、社会主義者（しゃかいしゅぎしゃ）で、進歩論者（しんぽろんしゃ）、人道主義者（じんどうしゅぎしゃ）でおいでのあなたがたには、或（ある）いは奇怪（きかい）なこととも見えましょう。3-40-3-15が、わたしは、同胞（どうほう）のことなど決して考えたことがありません。3-40-3-16わたしを保護（ほご）してくれないような考えてくれようともしない社会を、決して保護（ほご）してやろうと思いません。3-40-3-17わたしの同胞（どうほう）なり社会なりは、わたしが彼らを認めずにいてやること、無関心（むかんしん）の態度（たいど）をとっていてやるだけで、感謝（かんしゃ）していてくれていいと思うのです」。 3-40-3-18「賛成（さんせい）ですな！」と、シャトー・ルノーが叫んだ。3-40-3-19「わたしははじめて、堂々と、辛辣（しんらつ）に、利己主義を説く勇気（ゆうき）のある人の言葉を聞いたわけです。3-40-3-20賛成です、伯爵！」。3-40-3-21「少なくも、きわめて率直（そっちょく）なお言葉ですな」と、モレル大尉が言った。3-40-3-22「ですが、それほど絶対的（ぜったいてき）な態度（たいど）でお述べになりはしましたが、その原則（げんそく）に一度だけお背（そむ）きになったことを後悔（こうかい）しておいででないだろうと思うのですが」。3-40-3-23「いつわたしが原則に背きました？」と、モンテ・クリスト伯がたずねた。3-40-3-24伯爵は、ときどき注意（ちゅうい）深（ぶか）い眼差しで、モレル大尉のほうをじっと見ないではいられなかった。 3-40-3-25で、モレル大尉は、心になんら臆（おく）するところのない青年（せいねん）ではあったが、すでに二度三度、澄明（とうめい）な伯爵の眼差しの下（もと）に目を伏（ふ）せずにはいられなかった。3-40-3-26「でも」と、モレル大尉は言った。3-40-3-27「お知り合いでもないアルベールさんをお助けになったということは、つまり同胞なり社会なりのためにお尽（つく）しになったことのように思われますが、」。 3-40-3-28「そしてアルベール君（くん）は、確（たし）かにそれらのものを、もっともりっぱに代表しているもののように思われますが」と、ボーシャンは、シャンパンの杯（はい：さかずき）を乾（ほ）しながら、おごそかに言った。3-40-3-29「伯爵！」と、アルベールが叫んだ。3-40-3-30「いかがです、わたしの知っているかぎりにおいて、もっとも厳格（げんかく）な理論家（りろんか）でおいでのあなたが、理詰（りづ）めにされておしまいでした。3-40-3-31やがて、あなたが利己主義者どころか、博愛（はくあい）主義者（しゅぎしゃ）でおいでのことが明白（めいはく）になってくるでしょう。3-40-3-32ああ、伯爵、あなたは御自分で、東洋人（ペルシャ地域の国民）だ、近東人（トルコ地域の国民）だ、マライ人（インドネシヤ地域の国民）だ、シナ人（中国地域の国民）だ、野蛮人（やばんじん）だと言っておいでになります。 3-40-3-33御家名（ごかめい）は、モンテ・クリスト、呼名（よびな）は船乗りシンドバッド、と言っておいでになります。3-40-3-34ところがどうです、パリに足をお踏み入れになったその日から、早くも気まぐれなパリ人の長所（ちょうしょ）と弱点（じゃくてん）とをおのずから備（そな）えておしまいでした。3-40-3-35つまり、御自分にない欠点（けってん）をさもあるように御吹聴（ごふいちょう）になるかと思えば、お持ちの美徳（びとく）を、ひたかくしにお隠（かく）しになるのですから」。 3-40-3-36「子爵（ししゃく）、」と、モンテ・クリスト伯は言った。3-40-3-37「わたしは、自分がこれまで言ったりしたりしたことのなかで、いま、あなたをはじめ、ここにおいでの方々（かたがた）から、お賞（ほ）めにあずかるにふさわしいような事実を、なに一つ見出せないでいるのです。3-40-3-38あなたは、わたしにとって、未知（みち）の方（かた）ではないのでした。3-40-3-39というのは、わたしはあなたを存じ上げていたからなので。3-40-3-40あなたに、二つの室を御提供（ごていきょう）したこともあり、午餐を差し上げたこともあり、馬車を一台お貸（か）ししたこともあれば、ごいっしょにクール町（コルソ通り）で、仮面（かめん）をかぶった人たちの通るのを見たこともあり、ポポロ広場の窓からは、あなたが、気分の悪くなるような強い印象（いんしょう）をお受（う）けになった処刑（しょけい）をごいっしょに見たこともあったのでした。 3-40-3-41さて、そこで御一同（ごいちどう＝みなさん）へのおたずねですが、わたしとして、自分にとっての賓客（ひんきゃく）を、おっしゃるとおりの、恐ろしい山賊の手にゆだねて黙（だま）って見ていられたことでしょうか？3-40-3-42それに、あなたをお助けしたというのも、それはわたしがパリ見物（けんぶつ）にやってくるとき、パリの貴紳（きしん：goo国語辞書：身分と名声のある男子。貴顕紳士）と交際（こうさい）するため、御利用（ごりよう）申（もう）そうと思ってでした。3-40-3-43あなたは、こうした考えを、『とりとめ』のない、ほんの気まぐれくらいに考えておいでだったかもしれません。3-40-3-44ところがどうです、今日（きょう）となって、それがまさに事実（じじつ）であることがおわかりになったことでしょう。3-40-3-45そして、こうした事実をお認めくださらないということでしたら、約束に背くことにおなりでしょう」。 3-40-3-46「そのお約束は守りますとも」と、アルベールが言った。3-40-3-47「ただし、変化に富んだ風景（ふうけい）とか、絵のようなできごと、この世のものと思われないような風物（ふうぶつ）を見なれておいでのことなので、ひどく幻滅（げんめつ）をお感じになりはしまいか、それを案（あん）じておりますので。3-40-3-48ここでは、変化に富んだ御生活（ごせいかつ）の中で、すでにごらんだったようなおもしろいことなぞ、薬（くすり）にしたくもありません。3-40-3-49われわれのチンボラッツオ（著者註：南米エクアドルのアンデス山脈中の休火山：６，２６８ｍ）はモンマルトルの高台（たかだい）であり、われわれのヒマラヤ山（やま）はバレリヤンの丘であり、われわれの大砂漠（だいさばく）はグルネルの原（はら）というわけなのです。3-40-3-50ただし、そこでは今、隊商（たいしょう）が水を手に入れられるような、アルトワふうの噴水（ふんすい）を掘っております。

3-40-3-51人のいうほどではないにしても、盗賊（とうぞく）のたぐいもかなりおります。3-40-3-52もっともその盗賊は、お大名（だいみょう）よりも、下っ端（したっぱ）の探偵（たんてい）のほうを怖（こわ）がるようなやからですが。3-40-3-53それに、フランスはあまりにも無風流（むふうりゅう）な国、パリはあまりに開けすぎた都、あなたが八十五県−−−そうです、もちろん、コルシカを除（のぞ）きますから八十五県になるわけで−−−八十五県のどこをおさがしになりましても、電線（でんせん）の張（は）られていないい山といってはなく、警察（けいさつ）がガス燈（とう）をつけさせないでおくような暗（くら）い洞窟（どうくつ）など、ただの一つもありません。 3-40-3-54そこで伯爵、わたしがお尽（つく）しできることと言えば、ただ一つをおいてありません。3-40-3-55それについては、じゅうぶん御用（ごよう）を務（つと）めましょう。3-40-3-56それはあなたを方々（ほうぼう）へ御紹介（ごしょうかい）申しあげ、またわたしの親友たちにもそれをやって貰（もら）うこと、これはいまさら申しあげるまでもございません。3-40-3-57もっとも、あなたとしては、誰も必要とはなさいますまい。3-40-3-58りっぱなお名前があり、財産（ざいさん）がおありになり、それだけの御才能（ごさいのう）がおありとあっては（この時、モンテ・クリスト伯は軽い皮肉（ひにく）を浮かべて微笑しながら、ちょっと会釈（えしゃく）した）、どこへなりとお顔をお出しになれましょう。3-40-3-59そして、到（いた）るところで大款待（だいかんたい）をお受けでしょう。 3-40-3-60わたしとしては、パリの生活にも慣（な）れており、快適（かいてき）な暮（くら）しの経験（けいけん）もあり、『なじみ』の店もありますので、何かお役に立てますなら、まず手はじめに、適当な家をおさがししようと思いますが。3-40-3-61口（くち）にこそ利己主義を説きませんが、根（ね）が至（いた）って利己主義なわたしは、ローマでごやっかいになったときのように、住居（じゅうきょ）の一部（いちぶ）をとは申しあげられません。3-40-3-62と申しますのは、なにぶん手狭（てぜま）のことではあり、お一方（ひとかた：一人）でもお泊（と）めする場所がないのでして。3-40-3-63もっとも、それが婦人（ふじん）ということでしたら、話が別というわけですが」。（読者註：伯爵側の女性ではなく、アルベールの婚約者を意味している）。

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ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/6/5