３９（１２）社交界の第一声(だいいっせい)「大貴族」

3-39-12-1「モンテ・クリスト伯爵さまのお見えでございます！」。3-39-12-2それを聞いた一同（いちどう）は、われにもあらずおののいた。3-39-12-3それはまさに、アルベールの話によって、なにか不安な気持にされていたことをうかがわせるに十分（じゅぶん）だった。3-39-12-4アルベール自身も、にわかに覚（おぼ）える感動（かんどう）を、抑（おさえ）えきれないようすだった。3-39-12-5ところが、町には車の音も聞こえなかったし、次の間（ま）に、人の足音（あしおと）も聞こえなかった。3-39-12-6ドアまでが、音もせずに開かれたのだ。 3-39-12-7伯爵は、質素（しっそ）ではあるが、いかに気むずかしい『だて』者でも、これにまさるものはえられそうもないといった服装（ふくそう）で、戸口（とぐち）のところにあらわれた。3-39-12-8どこからどこまで、すぐれた趣味（しゅみ）に溢（あふ）れいて、服（ふく）といい、帽子（ぼうし）といい、肌着（はだぎ）といい、すべて粋（すい）を凝（こ）らしたその道の者の手でつくられていた。3-39-12-9歳（とし）はようやく三十五くらい。3-39-12-10そして、一同は、さっきドプレーが描（えが）き出した風貌（ふうぼう）と、寸分（すんぶん）たがっていないのを見てびっくりした。 3-39-12-11伯爵はほほえみながら客間（きゃくま）の中央（ちゅうおう）に足を進（すす）めると、自分を迎（むか）え、熱意（ねつい）のこもった手を差し伸べているアルベールのほうへ歩みよった。3-39-12-12「正確（せいかく）は王者（おうじゃ）の儀礼（ぎれい）である、とは、われらの国王（こくおう）の一人が申されたお言葉と思います」と、モンテ・クリスト伯は言った。3-39-12-13「しかし、たといどれほどの誠意（せいい）を持っていましても、その儀礼は、旅人にはあてはまらないもののように思われます。3-39-12-14子爵（ししゃく）、お約束（やくそく）の時間にニ三秒（に・さん・びょう）の遅刻（ちこく）があったことを、どうか誠意に免（めん）じておゆるしいただきたいと思います。3-39-12-15なんといっても五百里（ごひゃくり：５００Ｘ４ｋｍのばあい＝２，０００ｋｍ）の道です。3-39-12-16故障（こしょう）のあるのもとうぜんでして。3-39-12-17とりわけフランスでは、駅馬車（えきばしゃ）の馭者（ぎょしゃ）を打ってはならないことになっているようですし」。 3-39-12-18「伯爵、」と、アルベールは答えた。3-39-12-19「お約束したこの機会（きかい）にと思って、ニ三（に・さん）の親友（しんゆう）を招（まね）いておき、ちょうどおいでのことを話しておりましたところでした。3-39-12-20その友人たちを、御紹介させていただきます。 （１）シャトー・ルノー 3-39-12-21これは、その家系（かけい）に十二人の貴族（きぞく）を数え、祖先（そせん）は円卓（えんたく）にい列したことのあるというド・シャトー・ルノー男爵。 （２）リュシアン・ドプレー 3-39-12-22こちらは内務（ないむ）大臣（だいじん）秘書官（ひしょかん）リュシアン・ドプレー氏。 （３）ボーシャン 3-39-12-23こちらは辛辣（しんらつ）な操觚者（そうこしゃ：記者：操觚（そうこ）：文筆に従事すること）で、フランス政府（せいふ）にとっての脅威（きょうい）であり、国内では有名（ゆうめい）でありますが、その新聞（しんぶん）がよまれていないイタリーでは恐らく噂（うわさ）をお聞きにならなかったと思いますが、ボーシャン氏（し）。 （４）マクシミリヤン・モレル 3-39-12-24それからアルジェリヤ騎兵隊（きへいたい）大尉（たいい）マクシミリヤン・モレル氏」。 3-39-12-25モレルという名を聞くと、いままで慇懃（いんぎん）ではあったが、すっかりイギリス人めいた冷静（れいせい）な態度（たいど）で挨拶（あいさつ）していた伯爵は、われ知らず一歩（いっぽ）踏（ふ）み出したと思うと、その蒼白（そうはく）な頬（ほお）の上に、うっすりした赤味（あかみ）が、さっと稲妻（いなずま）のように走った。3-39-12-26「新しいフランスの軍服（ぐんぷく）をお召しですな」と、彼は言った。3-39-12-27「りっぱな御軍服ですな」。3-39-12-28伯爵の声をしてこれほど沈痛（ちんつう）に顫（ふる）えさせたもの、平素（へいそ）それを曇（くも）らすなんの理由（りゆう）もないときにはあれほど美しく、なごやかに澄（す）み切っている彼の眼をして、思わずこうまで輝き出させたものはなんだったか？ 3-39-12-29「では、わがアフリカ軍の将士（しょうし）を一度もおごらんになったことがおありになりませんか？」と、アルベールが言った。3-39-12-30「一度も」と、伯爵は、すっかり平静（へいせい）を取りもどして答えた。3-39-12-31「そうですか！3-39-12-32この軍服の下には、わが軍隊のなかで、もっとも勇敢（ゆうかん）な、もっとも高潔（こうけつ）な心臓（しんぞう）が脈打（みゃくう）っております」。3-39-12-33「おお、伯爵」と、モレルがそれをさえぎった。3-39-12-34「話させてください、大尉・・・・ところで、われわれは、」と、アルベールは語りつづけた。3-39-12-35「じつはいま、この方（かた）が、じつに勇ましい行動（こうどう）をなさったことを伺（うかが）ったばかりのところでした。3-39-12-36今日（きょう）はじめてお目にかかったわけですが、わたしの親友（しんゆう）として御紹介申しあげることをおゆるしください」。 3-39-12-37これを聞いたとき、モンテ・クリスト伯の面上（めんじょう）には、例のふしぎな凝視（ぎょうし）と、例のほのかな赤らみと、それに、彼にあって、その心の動きを伝えるところの、眼瞼（がんけん：まぶた）の震（ふる）えが認められた。3-39-12-38「ほほう！このお方は高潔な心を持っておいでになる。3-39-12-39けっこうですな！」と、伯爵は言った。3-39-12-40アルベールの言った言葉にたいする答えというより、むしろ伯爵自身の胸に秘（ひ）められた考えにたいする答えとでもいったような歓声（かんせい）に近いこの言葉、それは、一同を、とりわけモレルを驚かした。3-39-12-41モレルはあっけにとられて、モンテ・クリスト伯の顔をじっと見つめた。3-39-12-42それでいて、言葉の調子（ちょうし）はいかにもやさしく、聞いていて気持がいいとさえ言えそうだった。3-39-12-43したがって、いまの歓声がいくらか変っていたにしても、べつに気をわるくしたりもできなかった。 3-39-12-44「なんで、あらためてあんなことを言うのかな？」と、ボーシャンがシャトー・ルノーに言った。3-39-12-45「まったくだ、」、多くの人々に接し、人を見る眼を持っているシャトー・ルノーは、モンテ・クリスト伯について、うかがいうるかぎりのものをつかんでいた。3-39-12-46「まったくアルベールの言った言葉のとおりだ。3-39-12-47伯爵はふしぎな人物だ。3-39-12-48ねえモレルさん、どうお思いです？」。3-39-12-49「さよう、」と、大尉は答えた。3-39-12-50「偽（いつわ）りを知らない眼と、親しみのこもった声を持っておいでですな。3-39-12-51わたしについて、ちょっとおかしな観察（かんさつ）をされましたが、わたしとしては好意（こうい）をお持ちできますな」。 3-39-12-52「みなさん、」と、アルベールが言った。3-39-12-53「ジェルマンが、食卓の用意がととのったと言っています。3-39-12-54伯爵、失礼ですが御案内させていただきます」。3-39-12-55人々は、だまったまま、食堂（しょくどう）のなかへはいっていった。3-39-12-56そして、各々席に着いた。 3-39-12-57「皆（みな）さん、」と、伯爵は、腰（こし）をおろすなりこう言った。3-39-12-58「おそらく失礼（しつれい）をやりかねないと思いますが、その申しわけのしるしとして、あらかじめお耳に入れておかねばならないことがございます。3-39-12-59わたしは他国（たこく）の者で、しかもはじめてパリにまいった田舎者（いなかもの）でございます。3-39-12-60したがって、フランスの生活というものをまったくわきまえておりません。3-39-12-61いままでというもの、りっぱなパリの伝統（でんとう）とは相容（あいい）れない東洋（とうよう）ふうの生活（せいかつ）以外（いがい）、あまり経験（けいけん）いたしたことがございません。3-39-12-62そうしたわけで、わたしの態度に、多分（たぶん）にトルコふう、ナポリふう、アラビヤふうなところがございましょうが、それは平（ひら）におゆるし願います。3-39-12-63申しあげたいことはこれだけです。3-39-12-64さ、みなさん、ちょうだいいたしましょう」。 3-39-12-65「なかなかりっぱな挨拶（あいさつ）だ！」と、ボーシャンがつぶやいた。3-39-12-66「たしかに大貴族（だいきぞく）にちがいないぜ」。3-39-12-67「大貴族だ」と、ドプレーが答えた。3-39-12-68「どこへ出しても、恥（は）ずかしくないほどの大貴族だ」と、シャトー・ルノーが言った。

（次章へ）

ページ制作者：（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/6/3