３６（１）モンテ・チトリオの鐘

　３６（１）モンテ・チトリオの鐘(かね)

3-36-1-1フランツがわれに返ったとき、アルベールは水を飲（の）んでいた。3-36-1-2その真っ青（まっさお）な顔色（かおいろ）からいっても、たしかに水の必要（ひつよう）があった。3-36-1-3一ぽう（いっぽう）伯爵は、すでに道化（どうけ）の衣裳（いしょう）をつけていた。3-36-1-4フランツは、目を機械的（きかいてき）に広場（ひろば）の方へ投（な）げると、断頭台も、首斬り役人（やくにん）も、また囚人（しゅうじん）たちも、すべてはみんな姿（すがた）を消（け）してしまい、残（のこ）っているのは、ただもの騒（さわ）がしい、せわしそうな、陽気（ようき）な群集（ぐんしゅう）だけだった。

3-36-1-5法王（ほうおう：この時代はまだ、ローマはカトリック教会の領土の一部であり、教皇は世俗の権力も持っていたので、日本語訳の「王」には意味がある。）の亡くなられたときと、仮面（かめん）行列（ぎょうれつ）のはじまりを知らせるときをのぞいて鳴（な）らさないことになっているモンテ・チトリオの鐘（かね）が、いまや盛（さか）んに鳴（な）りわたっていた。

3-36-1-6「あの、」と彼は伯爵に問いかけた。3-36-1-7「なにごとが起こりました？」。3-36-1-8「なにも起こったりはしませんでした。絶対（ぜったい）に」、と伯爵は言った。3-36-1-9「ごらんのとおり、ただ謝肉祭（しゃにくさい）がはじまったというだけなのです。3-36-1-10さ、早く衣装をおつけなさい」。

3-36-1-11「なるほど、」と、フランツは伯爵に言った。3-36-1-12「あの恐ろしいできごとも、まるで、夢のあとのようにしかおぼえていませんな」。3-36-1-13「というのは、つまりあなたのごらんになったのが、ただ一場（ひとば）の悪夢（あくま）にすぎなかったからなのです」。3-36-1-14「わたしにとってはそうでした。3-36-1-15ですが、あの死刑囚の男にとっては？」。3-36-1-16「あれも夢です。3-36-1-17ただあの男は目をつぶっている。3-36-1-18それに反して、あなたのほうは眼がさめておいでになる。3-36-1-19いったいどちらが仕合（しあわ）せか、そこのところは申せませんな」。

ぺピーノの消息
3-36-1-20「ですが、ペピーノは、」と、フランツがたずねた。3-36-1-21「あの男はどうなりました？」。3-36-1-22「ペピーノはなかなかふんべつのある青年ですね。3-36-1-23自惚（うぬぼれ）れなぞというものを微塵（みじん）ももっておりません。3-36-1-24自分が構（かま）われないのを見て怒（おこ）り出すような連中（れんちゅう）とちがって、あの男は一般の人たちの注意（ちゅうい）が仲間のほうへ向けられたのを見てすっかり喜んでしまいました。3-36-1-25そして、みんなの気持（きもち）がほかへ向いているのをいいことにして、群集のなかにまぎれこみ、自分といっしょにきてくれたありがたい坊（ぼう）さんたちに礼をいうことさえも忘れてしまったというわけです。

3-36-1-26たしかに人間というやつは、このうえなく恩知らずな、得手（えて）勝手（かって）な動物ですな・・・・が、まあ衣裳をおつけになりませんか？3-36-1-27ほら、アルベールさんがちゃんとお手本（てほん）を出しておいでですよ」。3-36-1-28なるほどアルベールは、その黒ズボン、エナメル塗（ぬ）りの靴（くつ）の上に、ただ機械的に薄琥珀（うすこはく）のズボンをはいてしまっていた。3-36-1-29「おい、アルベール、」と、フランツは声をかけた。3-36-1-30「君には、いっしょになってばか騒ぎができるのかい？3-36-1-31さあ、素直（そっちょく）な返事（へんじ）をしてもらおう」。3-36-1-32「だめだ」と、アルベールが答えた。3-36-1-33「だが、事実（じじつ）僕はあれを見てよかったと思っている。3-36-1-34伯爵の言われたことがわかったよ。3-36-1-35というのは、一度（いちど）馴（な）れておくと、人の感情にほんとの興奮（こうふん）を与えるものは、ああしたもの以外にないことがわかるからな」。

3-36-1-36「それに、ああいう場合、初めていろいろな性格（せいかく）の研究（けんきゅう）ができるわけでしてね」と、伯爵が言った。3-36-1-37「断頭台の第一段のところで、死は、人が一生（いっしょう）の間かぶりつづけてきた仮面をすっかりはぎとってしまいます。3-36-1-38そして、嘘（うそ）のない顔が現われます。3-36-1-39もっともアンドレアは、あまり見た目にきれいな顔ではありませんでしたが・・・・あのみっともないやつが・・・・さあ、みなさん、衣裳をおつけなさい、衣裳を！」。3-36-1-40フランツは、いまさら自分だけが女のように恥（はずか）しがり、仲間入（い）りをしないでは定（さだ）めしおかしく見えるだろうと思った。3-36-1-41で、自分も衣裳をつけ、仮面（かめん）をつけた。3-36-1-42だが、その仮面より、彼の顔の方がさらに白かったことは言うまでもなかった。

3-36-1-43身支度（みじたく）が出来ると、みんなは下へおりていった。3-36-1-44
馬車は、コンフェッチや花束（はなたば）を一杯（いっぱい）積（つ）んで、戸口（とぐち）のところで待（ま）っていた。

ページ制作者：　（ささくら宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/5/02