３５（８）撲殺(ぼくさつ)の光景(こうけい)

3-35-8-1「どうしたとおっしゃる？」と、伯爵は言った。3-35-8-2「おわかりになりませんか？3-35-8-3あそこの殺されようとしている人間が、自分の仲間（なかま）がいっしょに死なないことになったのをみて猛（たけ）りたっているのです。3-35-8-4したいほうだいにさせておいたら、自分だけ殺されて、仲間が助かるというので、その男を、爪（つめ）や歯（は）で引き裂（さ）いて殺しかねますまい。3-35-8-5おお、人間よ！人間よ！3-35-8-6鰐（わに）の種族（しゅぞく）よ！3-35-8-7とカルル・モール（シルラー『群盗』中に出てくる隊長）も言っております」と、伯爵は双（そう）の拳（こぶし）を群集（ぐんしゅう）の方へ差し伸べながら叫んだ。 3-35-8-8「お前たちらしいことをやっているな。3-35-8-9いつ、いかなる時も、お前たちはお前たちらしいことをやっているのだ！」。3-35-8-10なるほど、アンドレアと首斬り役人（やくにん）の二人（ふたり）の助手（じょしゅ）は、一つになって砂埃（すなぼこり）の中を転（ころ）げまわっていた。3-35-8-11死刑囚（しけいしゅう）はあいかわらず叫びつづけていた。3-35-8-12「あいつも殺せ。3-35-8-13あいつも死ぬんだ！3-35-8-14おれ一人（ひとり）殺（ころ）すって法（ほう）があるか」。3-35-8-15「ごらんなさい」と、伯爵は二人の青年の手を執（と）りながら言った。 3-35-8-16「ごらんなさい、ねえ、なんとおもしろいではありませんか。3-35-8-17ついいましがた、一人の男は、自分の運命（うんめい）をあきらめて断頭台（だんとうだい：公開で首を切り落とす装置）のほうへあるいてゆき、臆病者（おくびょうもの）らしく、なんの抵抗（ていこう）も抗弁（こうべん）もせずに死んでいこうとしていました。3-35-8-18何がその男にいくらかの力（ちから）を与えていたとお思いです？3-35-8-19何がその男の心に慰（なぐさ）めを与えていたとお思いです？3-35-8-20何がその男に刑罰（けいばつ）をあきらめさせていたとお思いです。3-35-8-21それは、自分以外の一人（ひとり）の男が自分とその苦しみを分つということでした。 3-35-8-22他の一人の男が、自分と同じように死んでゆくからということでした。3-35-8-23自分以外の一人の男が、自分より先に死んでゆくからということでした！3-35-8-24羊（ひつじ）を二匹、屠殺所（とさつしょ）に連（つ）れていってごらんなさい。3-35-8-25牛（うし）を二匹、屠牛所（とぎゅうしょ）に連れていってごらんなさい。3-35-8-26そしてそのうちの一頭に向かって、仲間（なかま）が死なずに済（す）むようになったことをわからせてやってごらんなさい。3-35-8-27羊は喜（よろ）んで啼（な）き声をたてるでしょう。3-35-8-28牛は嬉（うれ）しさのあまり吼（ほ）え立てることでしょう。 3-35-8-29ところがです、人間、神によってそのお姿を写して作られたと言われる人間、神から、その第一の、唯一の、そして最高（さいこう）の掟（おきて）として隣人（りんじん）の愛（あい）ということを教（おし）えられている人間、神（かみ）から、意志（いし）をあらわすために声（こえ）を与（あた）えられている人間が、朋輩（ほうばい）が助かったということを聞かされてまず第一に立てる叫びは、いったいなんだというのでしょう？3-35-8-30呪詛（じゅそ）です。3-35-8-31人間に光栄（こうえい）あれ。3-35-8-32自然（しぜん）のつくり出した傑作（けっさく）、作られたもののなかでの王者（おうじゃ）たる人間に光栄あれ！」。3-35-8-33こう言って伯爵はカラカラと笑った。3-35-8-34だがその恐（おそ）ろしい笑（わら）い声（ごえ）を聞いていると、こんなに笑ってのけられるようになるまでに、彼がどれほど恐ろしい苦痛（くつう）を経験（けいけん）したかということが察（さっ）しられた。 3-35-8-35だが、そのあいだにも格闘（かくとう）はつづけられ、見ているのさえ恐ろしいほどだった。3-35-8-36二人の男は、アンドレアを断頭台の上に運（はこ）びあげた。3-35-8-37すべての人々は彼に対して反感（はんかん）を抱（いだ）いていた。3-35-8-38二万人の声は、一せいに「やっちまえ！やっちまえ！」と叫んでいた。 3-35-8-39フランツは、後に身を引いた。3-35-8-40だが、伯爵はその腕をつかんで窓（まど）の前（まえ）に坐（すわ）らせた。3-35-8-41「どうしたのです？」と、伯爵は言った。3-35-8-42「かわいそうにおなりでしたか？3-35-8-43けっこうですな？3-35-8-44狂犬（きょうけん）の叫び声をお聞きになったとき、あなたは銃（じゅう）を持って町へ飛び出し、銃口（じゅうこう）を突（つ）きつけてその哀（あわ）れな動物（どうぶつ）を殺（ころ）しておしまいになるでしょう。 3-35-8-45ところが、犬の身になってみれば、もともと自分も他の犬に咬（か）みつかれたので、ただ自分が蒙（こうむ）ったことにたいして仕返（しかえ）しをしているという以外（いがい）、なんの罪咎（つみとが）もないのです。 3-35-8-46しかるにあなたは、一人の男に憐（あわ）れみを感（かん）じておいでになる。3-35-8-47その男は、誰にも咬（か）まれたりしなかったどころか、自分の恩人（おんじん）を殺したのです。3-35-8-48そしていま、自分の手が縛（しば）られているため、もう誰も殺すことができないため、せめて自分の牢内（ろうない）での朋輩（ほうばい）、自分の仲間の死ぬのを見たいと言ってわめきたてているのです！3-35-8-49いけません、いけません、ごらんなさい」。3-35-8-50だがそのすすめも、いまはほとんどなんの役にも立たなかった。3-35-8-51フランツは、この恐ろしい光景（こうけい）を見て、目がくらみそうでもしたようだった。 3-35-8-52二人の男は、死刑囚を断頭台のところへ運んだ。3-35-8-53そして、もがいたり、咬（か）みついたり、喚（わめ）き立てたりするのにとんじゃくなく、むりやりそこに坐らせてしまった。3-35-8-54そのあいだ、首斬り役人は、鎚（つち）を振（ふ）りかぶったままそばに立っていた。3-35-8-55合図（あいず）があると、二人の助手（じょしゅ）は身をひいた。3-35-8-56死刑囚（しけいしゅう）は立ちあがろうとした。 3-35-8-57だが、そのひまもなく、鎚（つち）は左の『こめかみ』に打ちおろされた。3-35-8-58低（ひく）い、鈍（にいぶ）い音（おと）がした。3-35-8-59そして、男は牛のように、うつぶせになって倒（たお）れてしまった。3-35-8-60やがて反動（はんどう）によって、今度（こんど）はあおむけに向（む）き直（なお）った。3-35-8-61すると、首斬り役人は鎚を置いて、腰（こし）から短刀（たんとう）を引き抜（ぬ）くと、咽喉（のど）をぐさりと一（ひと）えぐりした。3-35-8-62そして、腹（はら）の上に飛（と）びあがってふみにじりはじめた。3-35-8-63ふまれるたびに、血潮（ちしお）が死刑囚の首からほとばしった。 3-35-8-64今度という今度こそ、フランツにはがまんできなかった。3-35-8-65彼は、後にのけぞり、ほとんど失神（しっしん）したようになり、そこにあった安楽（あんらく）椅子（いす）の上に倒（たお）れてしまった。3-35-8-66アルベールは、目をつぶったまま立ってはいたが、手は帷（とばり）の布（ぬの）をつかんでいた。3-35-8-67伯爵は突立（つった）っていた。そして、悪鬼（あっき）のように、勝ち誇（ほこ）ったとでもいったようすだった。 「ルカによる福音書」 23-39十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。23-40もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。23-41お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。23-42そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。23-43イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

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ページ制作者：　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書
2017/5/01