３４（９）ルスウェン卿

2-34-9-1桟敷の男は、立ちあがっていた。2-34-9-2そして、その顔が明りに照（て）らし出されたのを見たフランツの目には、あのモンテ・クリスト島のふしぎな住人（じゅうにん）、すなわち昨夜（さくや：きのう）あのコリゼーの廃墟（はいきょ）で、声といい体つきといい、いかにもその人に似ていると思った人が見えたのだった。2-34-9-3もはや少しの疑（うたが）う余地（よち）もなかった。2-34-9-4あの奇怪（きかい）な旅人（たびびと）は、ローマに住んでいたのだった。2-34-9-5このとき、フランツの顔にあらわれた表情は、この男の出現を見て心に惹き起された動揺とまさに一致したものにちがいなかった。 2-34-9-6なぜかといえば、伯爵夫人は、そうした彼を見るなりたちまち笑い出し、なにごとが起こったのかとたずねたから。2-34-9-7「奥さま、」と、フランツは答えた。2-34-9-8「さきほど、あのアルバニヤ婦人を御存（ごぞん）じですかとおたずねしました。2-34-9-9今度（こんど）は、あの方（かた）の御主人（ごしゅじん）を御存じかどうか、それをおたずねしたいと思いますが」。2-34-9-10「御主人といって、べつに詳しいことは」と、夫人が答えた。2-34-9-11「これまでお気づきになりませんでしたか？」。2-34-9-12「これはフランスふうなおたずねですわね！2-34-9-13御存じでしょう、わたしたちイタリーの女にとって、好きな方（かた）以外（いがい）、この世に殿方（とのがた：男性のこと）なんかいらっしゃらないわけなんですもの」。 2-34-9-14「ごもっともで」と、フランツが答えた。2-34-9-15「いずれにしても、」と、夫人は、アルベールの眼鏡（めがね）を眼にあて、それを桟敷のほうへ向けながら言った。2-34-9-16「最近（さいきん）墓場（はかば）から抜け出してきたとでもいった男でしょう。2-34-9-17たしかに墓掘（はかほ）りにゆるしてもらって、墓から出てきた死人（しにん）ですわ。2-34-9-18だって、恐ろしく青い顔をしておいでですもの」。2-34-9-19いつでもあんな顔色なのです」と、フランツが答えた。2-34-9-20「では御存じ？」と、夫人がたずねた。2-34-9-21「では、わたしのほうからおたずねしなければなりませんわ」。 2-34-9-22「会ったことがあるように思うのです。2-34-9-23どうも見たことがあるように思うのです」。2-34-9-24「なるほど、」と夫人は、ちょっと身ぶるいでもするように美しい肩をふるわせて言った。2-34-9-25「わかりますわ、ああした方（かた）、一度お会いしたらどんなことがあっても忘れられない方（かた）なんですもの」。2-34-9-26してみれば、フランツの感じたところも、彼として特別な印象（いんしょう）とばかりは言えなかった。2-34-9-27彼（かれ）以外の者にしても、彼とおなじようにそれを感じていたからだった。2-34-9-28「いかがです！」と、フランツは、夫人が、も一度その男のほうへ眼鏡（めがね）を向けるのを待ってたずねた。2-34-9-29「どうお思いです？」。 2-34-9-30「まるで、ルスウェン卿（きょう）（スコットランドの伯爵。マリー・スチュアート時代、事に坐して断頭台で処刑された。バイロンの作にこの人を材としたものがある）が生きかえってきたとでもいうようですわ」。2-34-9-31事実、フランツは、バイロンを思い出しながら心を撃たれていた。2-34-9-32もし彼に吸血鬼（きゅうけつき）の存在を信じさせるものがあったとしたら、それはまさにこの男を措（お）いてほかになかった。2-34-9-33「あの男がなにものであるか、一つ調（しら）べてみることにしましょう」。2-34-9-34フランツはそう言いながら立ちあがった。 2-34-9-35「いいえ、いいえ！」と、夫人は叫んだ。2-34-9-36「いいえ、あちらへいたしってはいけませんわ。2-34-9-37送っていただきたいと思うんですもの。2-34-9-38お引きとめしますわ」。2-34-9-39「え！ではほんとに、」と、フランツは夫人の耳に身をよせて言った。2-34-9-40「こわいとお思いなんですか？」。 2-34-9-41「お聞きください、」と、夫人は言った。2-34-9-42「バイロンは、たしかに吸血鬼がいると申しましたし、また吸血鬼を見たといって、その顔のことまでも話していました。2-34-9-43それがまったくあの人そっくり。ああしった黒い髪（かみ）、ふしぎな焔（ほのお）で輝いている大きな眼、おそろしいほど青い顔色。2-34-9-44それに、ほら、あの方（かた）は普通の女の人といるのではありませんのよ。2-34-9-45あの人といっしょにいるのは外国（がいこく）の女−−−ギリシャの女、離教者（りきょうしゃ：シスマテツク）・・・・あの人とおなじように、魔法（まほう）使いにちがいないと思いますの。2-34-9-46お願いです、どうかおいでにならないで。2-34-9-47明日になったらお好きなようにお調べになって。2-34-9-48でも、今日のところはわたしのそばにいらしってちょうだい」。

ルスウェン卿

2-34-9-49フランツはためらった。2-34-9-50「ねえ、」と、彼女は立ちあがりながら言った。2-34-9-51「わたし、もうまいりますわ。2-34-9-52わたし、おしまいになるまでいられませんの、客をよんでありますから。2-34-9-53あなた送ってくださいますわね」。2-34-9-54べつに返事のしようもなかった。2-34-9-55こうなったら帽子をとり、扉を開き、腕を伯爵夫人び与える以外に仕様（しよう）がなかった。2-34-9-56彼はそのとおりにした。2-34-9-57夫人は、事実とてもおびえていた。2-34-9-58そして、フランツ自身も、迷信（めいしん）がかった恐怖の気持をおさえることができなかった。2-34-9-59夫人は、ただ本能的にそう思っていたにすぎなかったが、彼のほうでは、それに一つの思い出が基礎を置いているだけ、それだけ恐怖するのに理由があった。 2-34-9-60彼には、夫人が馬車に乗りながら体をふるわせているのが感じられた。2-34-9-61そして、夫人を邸（やしき）まで送って行くと、そこには人の影も見えない。2-34-9-62待たせてあると言いながら、客らしい姿は見えなかった。2-34-9-63彼は、そのことを夫人になじった。2-34-9-64「じつは、」と、夫人が言った。2-34-9-65「あたし気分がわるいんですの。2-34-9-66一人だけでいたいんですの。2-34-9-67あの男を見たので、『すっかり』変な気持になって」。2-34-9-68フランツは、つとめて笑いにまぎらした。2-34-9-69「どうかお笑いにならないで」と、夫人は言った。2-34-9-70「それに事実、あなたにしても、お笑いになりたくはないんでしょう。2-34-9-71お約束なすっていただきたいの」。 2-34-9-72「どんな？」。2-34-9-73「お約束なすっていただきたいの」。2-34-9-74「お望みどおりなんなりと。2-34-9-75ただし、あの男が何者であるか、それを調べずにおくことだけは御容赦（ごようしゃ）ください。2-34-9-76理由は申し上げられませんが、あの男が誰であるか、どこからきたのか、どこへ行くのか、それを知りたいと思いますから」。 2-34-9-77「どこからきたのか知りませんがどこへ行くのかだけは申せますわ。2-34-9-78たしかに地獄（じごく）へ行くんですわ」。2-34-9-79「さて、守れとおっしゃったお約束というのは？」と、フランツが言った。2-34-9-80まっすぐお宿に帰っていただきたいと言うことですの。2-34-9-81そして、今夜あの男に会おうとなさらないでいただきたいの。 2-34-9-82人が離れたり会ったりするには、なにか因縁（いんねん）といったようなものがあるんですわ。2-34-9-83あの男とあたしを結（むす）びつけたりなさらないで。2-34-9-84なんなら、明日（あす）になってから跡（あと）を追うことになさってちょうだい。2-34-9-85でも、あたしに紹介（しょうかい）しようなぞなさらないで。2-34-9-86あたしをこわがらせまいとお思いでしたら。2-34-9-87では、そういうことにしておいて、さようなら。2-34-9-88おやすみなさい。2-34-9-89あたし、きっと今夜は眠れませんわ」。 2-34-9-90こう言ってから、伯爵夫人はフランツと別れた。2-34-9-91彼には、夫人が自分をからかおうと思っているのだろうか、それとも言葉（ことば）どおりほんとにこわがっているのだろうか、そのいずれともわからなかった。 関連事項：吸血鬼「ドラキュラ」

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引用者：2016/10/10　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書