３４（８）メドラもあの美人のような

2-34-8-1アルベールは、うってつけの話題（わだい）を見出（みいだ）していた。2-34-8-2それはパリの話題だった。2-34-8-3彼は夫人に向かって、互（たが）いの知っている人たちのことを話し出した。2-34-8-4フランツは、彼がうまく調子（ちょうし）に乗（の）ったのを見てとった。2-34-8-5で、そのままにさせておいて、アルベールから大きなオペラ・グラスを借（か）り、今度（こんど）は自分が場内（じょうない）を物色（ぶっしょく）しはじめた。 2-34-8-6そこから三列目の一つの桟敷の前面（ぜんめん）のところに、ギリシャふうのよそおいをした美しい女が、たった一人で坐っていた。2-34-8-7いかにも楽しそうなその着こなしから見て、女はたしかに、自分の国のよそおいをしているにちがいなかった。2-34-8-8女のうしろ、かげになったところに、顔ははっきりわからなかったが、一人の男が見えていた。2-34-8-9フランツは、アルベールと夫人との話をさえぎった。2-34-8-10そして、男だけでなく女の目までも惹（ひ）かずには措（お）かぬ、その美しいアルバニヤ女を御存じではないだろうかと夫人にたずねた。 2-34-8-11「いいえ、」と、夫人は答えた。2-34-8-12「知っておりますのは、あの方が、この季節（きせつ：セーゾン）のはじめから『ずっ』とローマにいらっしゃるということだけですの。2-34-8-13お芝居（しばい）のはじめから、わたし、あの方（かた）がいまのところにいらっしゃるのを見ておりました。2-34-8-14そして一月（いちがつ）以来（いらい）、あの方は一度（いちど）だってお欠かしになったことがありませんの。2-34-8-15或るときは、いまいらっしゃる男の方とごいっしょで、また或るときは、ただ黒奴（こくど）の召使を一人おつれになって」。 2-34-8-16「どうお思いです、あの方を？」。2-34-8-17「とてもおきれいな方（かた）ですわ。2-34-8-18メドラっていうのも、きっとああいう方だったろうと思いますわ」。2-34-8-19フランツと夫人は微笑をかわした。2-34-8-20夫人はふたたびアルベールと話しはじめた。2-34-8-21そして、フランツも、ふたたびいまのアルバニヤ女のほうへ眼鏡（めがね）を向けた。

2-34-8-22幕が上がるとバレーだった。2-34-8-23これは、振付師（ふりつけし）としてイタリーで大きな名声を博（はく）し、後に水上（すいじょう）演劇（えんげき）をやってその評判（ひょうばん）を台無（だいな）しにしたあの有名なアンリーの手によるりっぱなイタリアン。バレーの一つだった。2-34-8-24このバレーでは、立役者（たてやくしゃ）から端役（はしやく）まで、みんな一様（いちよう）に元気に動いて、百五十人の人間が同時におなじ『しぐさ』を見せ、おなじ腕（うで）、おなじ脚（あし）を一度に上げて見せるのだった。バレーの題は『ポリスカ』だった。 2-34-8-25フランツは、その美しいギリシャ女に夢中になっていて、バレーごとき、いかにおもしろかろうとまったく問題にしていなかった。2-34-8-26一ぽう（いっぽう）女のほうは、あきらかにこの出し物をたのしく思っているらしかった。2-34-8-27それは、連れ（つれ：本は伴）の男のいかにも思いきった無感覚なようすと極端（きょくたん）な対照（たいしょう）を示していた。2-34-8-28男は、すぐれたバレーのつづいているあいだ身動き一つせず、オーケストラから聞こえるラッパやシンバルやシャポー・シノワ（銅で作った笠の縁（ふち）に小さな鈴を幾つも下げた楽器の名）などのはげしい音色（ねいろ）にも頓着（とんちゃく）なく、楽しい、平和な眠りの醍醐味（だいごみ）を味わってでもいるようだった。 2-34-8-29やがて、バレーが終った。2-34-8-30そして、酔ったような平土間（ひらどま）からの熱狂裡（ねっきょう・り）に幕がおりた。2-34-8-31オペラのあいだにバレーをはさむので、イタリーでは幕間（まくま）がひじょうに短い。2-34-8-32踊り手がくるくるまわったり、跳（は）ね上がって踵（かかと）を打ち合わせたりしているあいだに、役者（やくしゃ）のほうでは、じゅうぶん休息（きゅうそく）したり衣装（いしょう）を変えたりする暇（ひま）があるのだった。 2-34-8-33ニ幕目（にまくめ）の序曲（じょきょく）がはじまった。2-34-8-34最初のバイオリンの調べとともに、フランツは、いままで眠っていた男がしずかに身を起こし、女のほうへ身を寄せるのを見た。2-34-8-35と女は、なにか話しかけるらしく男のほうをふり向いて、それからまた桟敷の手すりに肱（ひじ）をかけた。2-34-8-36男の顔は、あいかわらずかげになっていて、フランツには、少しもその顔かたちがわからなかった。2-34-8-37幕があがった。2-34-8-38フランツの注意はいやおうなしに役者たちのほうへ惹（ひ）きつけられ、目は、舞台（ぶたい）を見るためにちょっとの間（あいだ）ギリシャ婦人の桟敷から離（はな）れた。 2-34-8-39人も知るごとく、二幕目は夢のニ重唱（にじゅうしょう）であく。2-34-8-40パリシナは、寝ながら、アッツオの前で、ついウゴにたいする恋（こい）の秘密を口にする。2-34-8-41裏切られた夫は嫉妬（しっと）に燃えて、妻が自分にたいして不貞（ふてい）をしたと思いこみ、妻（つま）を揺（ゆ）り起こし、近く復讐（ふくしゅう）することを告げてやる。2-34-8-42そこのところの二重唱は、ドニゼッチ（十九世紀イタリーの有名な作曲家）の豊かな楽想（がくそう）から出たもののなかでもとりわけ美しく、とりわけ情趣（じょうしゅ）に富み、とりわけ恐ろしいものの一つだった。 2-34-8-43フランツとしては、これを聞くのは三度目だった。2-34-8-44そう大して音楽好きでもなかったが、彼はこの二重唱から深い印象をうけて、観客（かんきゃく）すべての拍手（はくしゅ）とともに自分も拍手を送ろうとした。2-34-8-45ところが、彼はまさに手をたたきかけようとして中止し、その口から漏（も）れようとしていた喝采（かっさい）は、そのまま唇（くちびる）のあたりで消えてしまった。

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引用者：2016/10/9　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義
オリジナル教会・ささくら修道会・必読書