３１（１６）翼で一日の世界一周

2-31-16-1しばらくのあいだ沈黙がつづいた、2-31-16-2シンドバッドは、話の間（あいだ）にも絶（た）えずその念頭（ねんとう）を去らなかったらしいもの思いにふけっていた。2-31-16-3一ぽう（いっぽう）フランツも、無言（むごん）の夢見心地（ゆめみ・ごこち）に沈（しず）んでいた。2-31-16-4それは、いい煙管（きせる）をすっているときの夢見心地とちがわなかった。2-31-16-5アリが、コーヒーを持ってはいってきた。2-31-16-6「どういうのがお好きですかな？」と、主人が言った。2-31-16-7「フランスふうにしますか、トルコふうにしますか、濃いのにしますか、薄いのにしますか、砂糖（さとう）を入れますか、入れませんか、『こし』たのにしますか、煮（に）たのがよろしいか、お好きなものをさしあげます。2-31-16-8どれの用意もできております」。
 
 
2-31-16-9「トルコふうのをいただきましょう」と、フランツが答えた。2-31-16-10「ごもっともで」と、主人は叫んだ。2-31-16-11「東洋（トルコ帝国）生活の下地（したじ）をもっておいでのことがわかりますな。2-31-16-12いや、まったく、近東（イスタンブールあたりがヨーロッパと東洋の境目）人（きんとう・じん）は生きるということを知っている唯一（ゆいいつ）の人間といえましょう！2-31-16-13わたしにしても、」と、彼は例（れい）の怪（あや）しい微笑を浮かべながらつけ加えた。2-31-16-14フランツはその微笑のかげを見のがさなかった。2-31-16-15「わたしは、パリでの用がすみましたら、東洋で余生（よせい）を終ろうと思っています。2-31-16-16そのとき、わたしに会いたいとお思いでしたら、カイロか、バグダッドか、イスパハンあたりをお探しいただければいいわけです」。

2-31-16-17「おお、」とフランツは言った。2-31-16-18「それは造作（ぞうさ）ないことです。2-31-16-19というのは、どうやら翼（つばさ：よく）が生（は）えてきたような気持ですから。2-31-16-20そしてこの翼で、一日（いちにち）で世界一周（せかいいっしゅう）もやってのけられそうに思われますから」。2-31-16-21「ほほう！ハシッシュがまわってきましたな。2-31-16-22よろしい！2-31-16-23翼をおひろげになるのですな。2-31-16-24仙境（せんきょう）に飛んでおいでなさい。2-31-16-25こわいことはありません。2-31-16-26わたしが見ていてあげますから。
 
 
2-31-16-27そして、もし、イカルスの翼（つばさ：イカルスはデダルの息子。翼を造り、それを蝋で体につけて空に飛んだがあまり太陽に近づきすぎて蝋が熔け、海に落ちたという話）よろしく、あなたの翼が太陽の熱で熔（と）けでもしたら、落ちておいでのところをちゃんと受け留（と）めてさしあげますから」。2-31-16-28こう言った彼は、アリに向かって、アラビヤ語で二言（ふたこと）三言（みこと）言いつけた。2-31-16-29アリは、承知（しょうち）したというようすで引きさがったが、そのまま立ち去ろうとはしなかった。

2-31-16-30いま、フランツの体の中には、ふしぎな変化が起こっていた。2-31-16-31終日（しゅうじつ）の肉体的の疲労（ひろう）、宵（よい）の事件（じけん）がかもし出した精神的の不安は、休息（きゅうそく）にはいる前、わずかに睡魔（すいま）のおそってくるのが感じられるほど意識の残っているときのように消えて行きかけていた。2-31-16-32彼の肉体には、この世のものとも思われぬ軽さが得られたもののように思われ、彼の精神は、いままで覚えたことのないほど明瞭（めいりょう）になり、感覚（かんかく）は、その能力（のうりょく）を倍（ばい）にでもしたように思われた。

2-31-16-33水平線（すいへいせん）は、見るみるひろさをましていった。2-31-16-34だが、それは、漠（ばく）たる恐怖のただよっている、眠りにはいる前に見た暗い水平線とはちがって、この上もなく美（うる）わしい海の紺碧（こんぺき）と、この上もなく輝かしい天日（てんぴ）の燦光（さんこう）と、このうえもなく香高（かおりたか）い微風（びふう）の芳香（ほうこう）とをもたらす、あの青い、清澄（せいちょう）な、そしてひろやかな水平線にほかならなかった。

2-31-16-35彼は、水夫たちの歌う唄（うた）、譜（ふ）に写し得るものならば、その清らかな音色（ねいろ）を写すことができるであろうと思われるほど朗々と響きわたる唄の間に、モンテ・クリスト島が、そのおびやかすような姿を波上（はじょう）に見せている岩礁（がんしょう）としてではなく、砂漠（さばく）の彼方（かなた）にただ一つのオアシスのようにあらわれてくるのを見たのだった。2-31-16-36そして、船が近づくにつれ、唄声は、いよいよ賑（にぎ）やかになっていった。2-31-16-37すなわち、人の心を奪うあやしい音楽が、ちょうどローレライを思わせる仙女（センニョ）とか、アンフィオンを思わせる幻術師（げんじゅつし）のように、さもそこに人を誘い、そこに一つの都を建てようとするかのように、この神の島から高まりのぼって行ったのだった。
 
 
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引用者：2016/9/19　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義