３０（９）あの店がただ一軒

2-30-9-1「それでは、わたしを一人にしておいてもらおう。2-30-9-2そして、女たちをこさせないようにしてもらおう」と、モレル氏が言った。2-30-9-3「妹に会ってやってはくださいませんか？」と、マクシミリヤンがたずねた。2-30-9-4青年の最後（さいご）の望（のぞ）みは、たとい『あて』にはならないにしても、父と妹とが会うということに潜（ひそ）んでいた。2-30-9-5それで、こうした申し出をしたのだった。2-30-9-6だが、モレル氏は頭を振りながら、「あれとは今朝（けさ）会った」と、言った。2-30-9-7「もうお別れは言ってあるのだ」。2-30-9-8「なにか、とくに、わたしにたいしてお言い残しになるようなことはありますまいか？」と、マクシミリヤンは、すっかり変った声でたずねた。

2-30-9-9「ある。ぜひ言い残しておきたいことがあるのだ」。2-30-9-10「おしゃってください、お父さん」。2-30-9-11「トムスン・アンド・フレンチ商会が、ただ一軒（いっけん）、同情（どうじょう）からか、利己心（りこしん）からか、その腹（はら）のなかはわからないが、ともかくわたしに同情してくれた。2-30-9-12その代表者という男が、もう十分（じゅっぷん）もすると二十八万七千五百フランの手形（てがた）の支払（しはら）を受取りにくるが、その男は、わたしに三ヶ月の猶予（ゆうよ）を、承諾（しょうだく）、ではなくて、先方（せんぽう）からわざわざ提議（ていぎ）してくれた。2-30-9-13あの店（みせ）に、第一に支払をしてやってほしい。2-30-9-14そして、その人に厚（あつ）く礼（れい）を述（の）べてほしい」。2-30-9-15「はい」と、マクシミリヤンは言った。

2-30-9-16「では、もう一度、さようなら」と、モレル氏は言った。2-30-9-17「行くがいい。2-30-9-18わたしは一人になりたいのだ。2-30-9-19遺言状（ゆいごんじょう）は、寝室（しんしつ）の机（つくえ）のなかにいれてあるから」。2-30-9-20青年には、いま意思（いし）の力（ちから）のみあって実行（じっこう）の力がなく、ぼうぜんとたたずんでいるだけだった。2-30-9-21「なあ、マクシミリヤン」と、父親は言った、「わたしがお前のように軍人（ぐんじん）だったと仮定（かてい）する。そして、わたしが砦（とりで）を奪取（だっしゅ）せよという命令を受け、それを占領（せんりょう）するためには命（いのち）を捨（す）てなければならないことがお前にわかっていたとする。

2-30-9-22そうした場合、お前は、さっきも言ったように『行って下さい、お父さん、生き残っていては不名誉（ふめいよ）です、恥辱（ちじょく）を受けるよりはむしろ死んだほうが『まし』ですから！』と、言ってくれようとはしないだろうか？」。2-30-9-23「そうです、おっしゃるとおりです」と、青年は言った。2-30-9-24そして、モレル氏を両腕（りょう・うで）でしっかり抱きしめながら、「おやりなさい、お父さん」と、言った。2-30-9-25そして室から出て行った。2-30-9-26息子が出て行くと、モレル氏はしばらく戸口を見つめたまま『じっ』と立っていた。2-30-9-27それから手を伸ばして呼鈴（よびりん）の紐（ひも）をつかんで鳴（な）らした。2-30-9-28しばらくするとコクレスがあらわれた。

2-30-9-29それはもう前と同じ人間ではなかった。2-30-9-30この三日間（みっか・かん）に『はっきり』思い知らされたことから、彼はすっかり取りひしがれたかたちだった。2-30-9-31モレル商会の支払停止（しはらい・ていし）、それは、頭上（ずじょう）に二十年の歳月がのしかかったというより以上に、彼の体を曲げさせていた。2-30-9-32「コクレス君」と、モレル氏はなんとも名状（めいじょう）しがたい声で言った。2-30-9-33「君は控（ひかえ）えの間（ま：室のこと）にいてほしい。2-30-9-34三ヶ月前にきたことのある方（かた）が、それ、君も知っているだろう、トムスン・アンド・フレンチ商会の代表者の方がお見えだたｔら、わたしに取次（とりつ）いでくれるのだ」。

2-30-9-35コクレスは答えなかった。2-30-9-36彼はうなずいて、控えの間へ行って待っていた。2-30-9-37モレル氏は、ふたたび『どっか』と椅子に腰をおろした。2-30-9-38彼は柱（はしら）時計（どけい）の方へ目を向けた。2-30-9-39まだ七分（ななふん）余裕（よゆう）があった。2-30-9-40針（はり）は、想像できないほどの速さで進んでいた。2-30-9-41彼には、針の進みが目に見えるような気持だった。
 
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ささくら修道会
引用者：2016/7/10、9/10　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義