３０（１０）助かりましたわ、お父さま！

2-30-10-1この最後（さいご）の時にあたって、この人の胸に浮かんだ感慨（かんがい）こそ、果（はた）してどんなものであったろう？2-30-10-2年（とし：歳）からいってもまだ働き盛り、たとい誤っているかは知らないが、少なくもきわめて至当（しとう）な論理（ろんり）の結果、いまやこの世に愛するすべての人々から離れ、十二分（じゅうにぶん）に家庭（かてい）の和楽（わらく）も与えられているこの人生から離れていこうというその胸中（きょうちゅう）、まさになんと書きあらわしていいかわからなかった。2-30-10-3せめてそれがわかるためには、額（ひたい）に汗をうかべながらも、そこに『あきらめの』色を浮かべ目は涙に潤（うるお）いながらも、空（そら）へ向けられていたその眼差しを見なければなるまい。 2-30-10-4針はどんどん進んで行った。2-30-10-5ピストルには、すでに弾丸がこめられている。2-30-10-6彼は、手を伸ばし、その一つを取りながら、娘の名をつぶやいた。2-30-10-7それから、ふたたび死の武器（ぶき）を下に置くや、ペンを取り、数語を書き記した。2-30-10-8彼は、最愛の娘に対し、別れの言葉がたりなかったように思っていたのだ。2-30-10-9彼は柱時計のほうをふり返った。2-30-10-10彼は分（ふん）ではなく、秒（びょう）で数えていた。2-30-10-11彼は、ふたたび武器を手にした。2-30-10-12口（くち）を半（なか）ば開（あ）け、眼をじっと時計の針にそそいだまま、そのとき彼は、撃鉄（げきてつ）を起こした音にぎょっとした。2-30-10-13ちょうどそのとき一だん冷ややかな汗は額にながれ、一（いち）だん身に迫る不安が心をおそった。 2-30-10-14と、折りも折り、階段へ向かったドアの蝶（ちょう）つがいのきしりが聞こえた。2-30-10-15そして、書斎の戸があいた。2-30-10-16時計（昔の柱時計は時報を鳴らした）は十一時を打とうとしていた。2-30-10-17モレル氏は、ふり向こうともしなかった。2-30-10-18彼は、コクレスによって、「トムスン・アンド・フレンチ商会の代表者の方が」と、呼ばれるのを待っていた。2-30-10-19そして、武器を口へ近づけていた・・・・。2-30-10-20と、突然（とつぜん）、彼は一つの叫び声を耳にした。2-30-10-21それは娘の声だった。2-30-10-22彼は、ふり向いてジュリーの姿を見た。2-30-10-23そして、思わずピストルを取り落とした。 2-30-10-24「お父さま！」と、娘は息せき切り、喜びに気も失わんばかりの声で叫んだ。2-30-10-25「助かりましたわ！2-30-10-26お父さま、助かりましたわ！」。2-30-10-27そう言った彼女は、手に緋絹（ひぎぬ）の財布（さいふ）を高くかかげながら、父の腕の中に飛びこんできた。2-30-10-28「娘！助かったと？2-30-10-29それはまたどうして？」。2-30-10-30「助かりましたの！ほら、ほら」。2-30-10-31モレル氏は、財布を手にすると、ぎょっとした。2-30-10-32それがかつて自分の物だったことを、おぼろげながら思い出してのことなのだった。2-30-10-33中には、二十八万七千五百フランの手形が入っていた。2-30-10-34手形は支払済みになっていた。 2-30-10-35さらに一ぽう（いっぽう）には、『はしばみ（カバノキ科の落葉低木。山野に自生する。春、穂状に小さい花をつける。球形の果実は食べられる）』の実ほどの大きさのダイヤモンドがあり、それには『ジュリーの婚資（こんし）』と羊皮紙（ようひし）の小片（しょうへん）に記（しる）したものが添（そ）えられていた。2-30-10-36モレル氏は額に手を当てた。2-30-10-37そして夢ではないかとあやしんだ。2-30-10-38ちょうどそのとき、柱時計が十一時を打った。2-30-10-39彼にとって、その音は、心臓に響く鋼鉄（こうてつ）の鎚（つち）のように思われた。

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引用者：2016/7/10、9/11　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義