３０（４）娘よ鍵を返せ

2-30-4-1九月四日の晩、モレル氏は娘に向かって、事務室の鍵を返せと言った。2-30-4-2それを聞いたジュリーは、何か不吉（ふきつ）なことが起こりそうに感じた。2-30-4-3いつも肌身（はだみ）離（はな）さずつけていて、子供のじぶん、お仕置（しお）きのためだけに取りあげられたその鍵を、なぜ父が返せと言うのだろう。2-30-4-4娘は、『じっ』とモレル氏の顔を見つめた。2-30-4-5「この鍵をお取りあげになるなんて、お父さま、わたくしなにか悪いことをいたしまして？」と、彼女はたずねた。 2-30-4-6「なにもしないさ」と、その無邪気（むじゃき）な質問を聞いて涙を浮かべながらモレル氏が答えた。2-30-4-7「なにもしやしないさ。2-30-4-8ただ、わたしにそれが入用（いりよう）だからさ」。2-30-4-9ジュリーは、鍵をさがすようなふりをしながら、「わたくし、自分の室に置いてきたのかもしれませんわ」と、言った。2-30-4-10そして室を出て行った。2-30-4-11だが、自分の室には行こうとはしないで、階段をおりると、エマニュエルのところへ相談しにかけつけた。 2-30-4-12「鍵をお父さまにお返しになってはいけません」と、エマニュエルが答えた。2-30-4-13「それに、できることなら、明日の朝、お父さまのおそばをお離れにならないで」。2-30-4-14彼女はエマニュエルにそのわけをきこうとした。2-30-4-15だが彼は、べつになにも知ってはいなかった。2-30-4-16或いは、それを言いたくなかったのかもしれなかった。2-30-4-17九月四日から五日（いつか）にかけての一夜（いちや）、モレル夫人はじっと戸に耳を押しつけていた。2-30-4-18午前三時まで、夫がいらいらしながら室のなかを歩いているのが聞こえていた。2-30-4-19三時になって、夫ははじめて床（とこ）についた。 2-30-4-20二人の女はいっしょに夜明（よあ）かしをした。2-30-4-21そして、マクシミリヤンのくるのを心待ちにしていた。（マクシミリヤンは近くの町ニームの連隊にいる）。2-30-4-22八時に、モレル氏は二人の室にはいってきた。2-30-4-23彼は落ちついていた。2-30-4-24だが、前の晩の昂奮（こうふん）のあとは、蒼（あお）ざめた、何かようすのちがった顔にもありありと読まれていた。2-30-4-25女たちは、彼に向かって、よく寝られたかどうかを聞くだけの勇気もなかった。2-30-4-26モレル氏は、いままでにないほど妻にたいしてやさしく、娘にたいしてもやさしかった。 2-30-4-27彼はいくら娘を見つめ、接吻（せっぷん）しても、し足（た）りないようなようすだった。2-30-4-28ジュリーは、エマニュエルの注意を思い出して、父が室を出て行くとき、後（あと）について行こうとした。2-30-4-29だが、父はやさしく彼女を押しやりながら、「お母さんのそばにおいで」と、言った。2-30-4-30ジュリーは、『でも』と言いたかった。2-30-4-31「わたしの命令だよ！」と、モレル氏は言った。2-30-4-32モレル氏が、命令だ！と、言ったのは、まさにこれがはじめてだった。2-30-4-33だが、そう言った彼の語気（ごき）には、ジュリーをして一歩（いっぽ）もふみ出す気を起させないほどの、親身（しんみ）なやさしさがこもっていた。

次へ

引用者：2016/7/10、9/9　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義