３０（１） ３０（１）
| 2-30-1-1モレル氏として、そんなことがあろうなどと夢にも思っていなかったとき、トムスン・アンド・フレンチ商会の代表者によって認めてもらえた猶予（ゆうよ）は、この哀れな船主（ふなぬし）にとって、運命が遂（つい）に人を悩ますことに疲れ、いまや幸福が再来（さいらい）してきたもののように思われた。2-30-1-2その日のうちに、彼はできごとを、娘にも妻にも、またエマニュエルにも話してきかせた。2-30-1-3そして、安心（あんしん）とまではいかないにしても、家族のあいだにいくらかの希望がもどってきた。2-30-1-4だが、困ったことに、モレル氏は、これほどの好意（こうい）を示してくれたトムスン・アンド・フレンチ商会とだけ交渉（こうしょう）があったわけではなかった。 2-30-1-5彼の言ったように、商売道（しょうばいどう）では、取引先はあるが友だちはない。2-30-1-6深く考えてみると、彼には自分にたいするトムスン・アンド・フレンチ商会の寛大（かんだい）な扱（あつか）いぶりが解（げ）せなかった。2-30-1-7商会は、自分の破滅（はめつ）を早めさせることにより、元金（がんきん）の六分（ろくぶ：６０％）か八分を回収（かいしゅう）するより、むしろ、店にとって三十万フラン（３億円）に近い負債（ふさい）のある男を助けておいて、三ヶ月たってその三十万を受取ろうという賢（かしこ）くも利己的（りこてき）な考えかたをしたものとしか解釈（かいしゃく）することができなかった。 2-30-1-8不幸にして、モレル氏の取引先は、悪意（あくい）からか、わけが判（わか）らずにか、誰ひとり同じような考え方をしてくれようとしなかった。2-30-1-9なかには反対の考え方をするものさえあった。2-30-1-10そんなわけで、モレル氏の振出（ふりだ）した手形は、約束どおり『きちん』と会計に差出された。2-30-1-11しかし、それらはイギリス人から与えられた猶予（ゆうよ）のおかげで、堂々とコクレスの手から支払うことができた。2-30-1-12したがって、コクレスは、依然（いぜん）運命に安（やす）んじていることができたのだった。2-30-1-13モレル氏だけは、もし十五日にボビル氏の五万フラン、三十日に、これも刑務（けいむ）検察官（けんさつかん）の分と同じく猶予してもらった三万二千五百フランの手形を支払わなければならなかったとしたら、すでに今月から破産者になってしまっていただろうことを想像して、思わず身ぶるいした。 2-30-1-14マルセイユの商業界全体の意見は、モレル氏は次から次へと悲運に苦しめられている結果、とうてい持ちこたえられまいということだった。2-30-1-15したがって、いつものとおり『きちん』と月末（げつまつ）の支払いがすまされたのを見たとき、その驚きは大きかった。2-30-1-16だが、それで人々の心に信用（しんよう）が立ちもどったわけではなく、不幸な船主の清算書（せいさんしょ）提出（ていしゅつ）がただ来月（らいげつ）末（すえ）まで延（の）びただけのことだというのにすべての人々の意見が一致していた。2-30-1-17その月いっぱい、モレル氏は資金（しきん）調達（ちょうたつ）にあらんかぎりの奔走（ほんそう）をした。2-30-1-18昔（むかし）だったら、彼の手形は、日付がどうであろうと、信用して引き受けてもらえ、むしろ相手から、望みさえされたものだった。 2-30-1-19ところがいま、九十日払いの手形で取引しようとした彼は、銀行という銀行から拒絶（きょぜつ）された。2-30-1-20幸いモレル氏自身（じしん）引きあてのできる入金（にゅうきん）があり、その金がはいって来たため、七月末（まつ、すえ）も、約束を履行（りこう）することができたのだった。 2-30-1-21一ぽう（いっぽう）、トムスン・アンド・フレンチ商会の代表者は、そのまま姿をマルセイユにあらわさなかった。2-30-1-22モレル氏を訪（たず）ねた翌日（よくじつ）か翌々日（よくよくじつ）、彼は姿を消してしまっていた。2-30-1-23それに、マルセイユでは、市長と刑務検察官とモレル氏より他（ほか）には交渉（こうしょう）を持っていなかったので、いま言った三人の抱（いだ）いた互いに異なった思い出（で）以外（いがい）、なんの痕跡（こんせき）も残してはいなかった。2-30-1-24一ぽう（いっぽう）、ファラオン号の船員たちのほうは、なにか口（くち）が見つかったかして、これも姿を消してしまっていた。 2-30-1-25ところへ、病気のためパルマに留（とど）まっていたゴーマール船長が、病気がなおったので帰ってきた。2-30-1-26彼は、モレル氏を訪（おとず）うことを躊躇（ちゅうちょ）した。2-30-1-27だが、モレル氏は、船長が帰ってきたのを知って自分のほうから会いに行った。2-30-1-28尊敬（そんけい）すべき船主は、ペヌロンの話によって、災厄（さいやく）の折（おり）の船長の勇敢（ゆうかん）な行動を知り、自分のほうから慰（なぐさ）めてやろうとしたのだった。2-30-1-29そして、ゴーマール船長が受取りにこないであろうと思われた彼の給料（きゅうりょう）を届けに行ってやったのだった。 2-30-1-30階段（かいだん）を降（お）りてきたモレル氏は、のぼってくるペヌロンとバッタリ出会った。2-30-1-31ペヌロンは、見たところ金（かね）をうまくつかったらしく、真新（まあたら）しい服を着こんでいた。2-30-1-32船主の姿を認めると、彼はひどく当惑（とうわく）したらしいようだった。2-30-1-33彼は階段をのぼりきったところの奥に突っ立って、大きな目を『きょろきょろ』させながら、噛煙草（かみたばこ）を左から右へ右から左へとうつしていたが、モレル氏がいつものうちとけた態度で差し伸べた手を、おずおじしながら握（にぎ）って返事にかえた。2-30-1-34モレル氏は、彼の当惑を、その服装の贅沢（ぜいたく）なことによるものと考えた。2-30-1-35自分として、これほどの服装ができるような金を与えなかったことは明らかだった。 2-30-1-36してみると、もはやどこか他（ほか）の船に勤（つと）めることになり、つまり、ファラオン号の喪（も）にいつまでも服（ふく）していないことを恥じているのかも知れなかった。2-30-1-37或いは、ゴーマール船長に自分の運のよかったことを伝え、新しい主人からの申し出を伝えるためにやってきたのかも知れなかった。2-30-1-38「みんないい人たちだ」。モレル氏は、出て行きながらそう言った。2-30-1-39「お前たちの新しい御主人が、わたしがお前たちを愛していたと同じようにお前たちを愛してくれるように。2-30-1-40そして、その方（かた）が、わたしよりも幸福でおありのように祈っているよ」。 |
| 次へ |
 |
引用者：2016/7/10、9/8 （笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」 初代代表者 笹倉正義