２９（７）船をこしらえたらいい

2-29-7-1「みごとだ、諸君（しょくん）」と、モレル氏が言った。2-29-7-2「君たちは見上（みあ）げた人たちだ。2-29-7-3それにわたしは前から、自分にふりかかる不幸は、べつに誰が悪いからというわけではなく、みんな運命だということを知っていた。2-29-7-4それは神さまの思召（おぼしめ）しで、人間の罪ではない。2-29-7-5神さまの思召しをたたえよう。2-29-7-6そこで、君たちにあげなくてはならない給金（きゅうきん）はいくらだったね？」。2-29-7-7「なんてこってす！2-29-7-8その話はよしましょうや、モレルさん」。2-29-7-9「どうしてだ。2-29-7-10その話をしようじゃないか」と、船主は悲しそうに微笑（びしょう）しながら言った。 2-29-7-11「それではと、あっしたちは三ヶ月分いただくことになってるんで・・・・」と、ペヌロンが言った。2-29-7-12「コクレス、このりっぱな人たちに、めいめい二百フラン（２００Ｘ１０００＝２０万円）ずつ支払ってあげてくれ。2-29-7-13これが今日（こんにち）のような場合でなかったら、」と、モレルはつづけた。2-29-7-14「めいめい二百フランずつの賞与（しょうよ：ボーナス）をあげたいところだが、諸君、いまはみじめなありさまなんだ、僅（わず）かばかり残った金も、もうわたしのものではない。2-29-7-15悪く思ってくださるな、恨（うら）んでくれては困りますよ」。2-29-7-16ペヌロンは感激（かんげき）のあまり顔色（かおいろ）を変えた。 2-29-7-17そして、仲間のほうへ行って、二言（ふたこと）三言（みこと）なにか話して帰ってきた。2-29-7-18「モレルさん、そのことなら、」と、彼は口のなかの噛煙草（かみたばこ）の位置を変えて、次の間（ま）のほうへふたたび『ぴゅっ』と唾（つば）を吐（は）いた。2-29-7-19「そのことなら・・・・」。2-29-7-20「そのこととは？」。2-29-7-21「お金のことで・・・・」。2-29-7-22「それが？」。2-29-7-23「それが、モレルさん、仲間の言うには、いまんとこは『めいめい』五十フラン（５万円）でけっこうで、残りは待っていようてんで」。2-29-7-24「ありがとう、諸君、ありがとう！」と、心の底まで感動してモレル氏が叫んだ。 2-29-7-25「君たちはみんなやさしい心をもっておいでだ。2-29-7-26だが、遠慮（えんりょ）なく取っておいてもらいたい。2-29-7-27そして、好（よ）い口（くち）が見つかったら、どうか他（ほか）へ勤（つと）めてもらいたい、これからみんなは自由なのだ」。2-29-7-28この終りの文句（もんく）は、健気（けなげ）な水夫（すいふ）たちの上に驚くべき印象（いんしょう）を与えた。2-29-7-29彼らはとほうにくれた面持（おももち）で互いに顔を見合わせていた。2-29-7-30息づまるような思いのペヌロンは、すんでのことに噛煙草を呑（の）み込むところだった。2-29-7-31運よく指が咽喉（のど）へとどいた。 2-29-7-32「なんですって、モレルさん」と、彼は苦しそうな声で言った。2-29-7-33「なんです、あっしたちに暇（ひま）を出そうっておっしゃるんですか！2-29-7-34じゃ、あっしたちがお気に入らねえっていうわけですかい？」。2-29-7-35「いいや」と、船主は言った。2-29-7-36「気に入らないどころのさわぎじゃない。2-29-7-37わたしは、君たちに暇を出そうと言うのじゃない。2-29-7-38だが、なんともしようがないじゃないか、わたしにはもう船がないんで、乗組員（のりくみいん）がいらなくなったというわけなんだ」。2-29-7-39「なんですって、あなたにはもう船がない！」と、ペヌロンが言った。 2-29-7-40「そいじゃあ、船をおこしらえになったがいい。2-29-7-41あっしたちは待ってますぜ。2-29-7-42おかげさまで苦労をすることくらいちゃんと心得ておりやすから」。2-29-7-43「ペヌロン、わたしには船を造らせるだけの金がないのだ」と、船主は淋（さび）しい微笑を浮かべて言った。2-29-7-44「で、君たちの申し出はじつにありがたいと思っているが、それを受けるわけにはいかないんだ」。2-29-7-45「お金がないとおっしゃるなら、あっしたちに給金（きゅうきん）をくだすってはなおお困りでさあ。2-29-7-46あっしたちは、あのかわいそうなファラオン号と同じように帆なしで走りゃすむこってさ！」。 2-29-7-47「もういいかげんにしてもらいたい」と、モレル氏は感動に息づまる思いで言った。2-29-7-48そして「頼むから、帰ってくれ。2-29-7-49運が向いたらまた会おうよ。2-29-7-50エマニュエル、」と、つけ加えた。2-29-7-51「みんなをつれてって、わたしの思いの通るようにしてもらいたい」。 2-29-7-52「またお目にかかれるんでしょうねえ、モレルさん？」と、ペヌロンが言った。2-29-7-53「ああ、会いたいと思っているが。2-29-7-54さ、行きたまえ」。2-29-7-55そしてコクレスに合図（あいず）をした。2-29-7-56コクレスは先へ立って歩いて行った。2-29-7-57船員たちは会計係の後（あと）に従い、エマニュエルは船員の後から歩いて行った。2-29-7-58「さ、しばらく一人きりにしておいてもらいたい」と、船主は妻と娘に言った。2-29-7-59「この方（かた）とお話しすることがあるのだから」。2-29-7-60そして彼はトムスン・アンド・フレンチ商会の代表者のいることを目顔（めがお）で示した。

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