２７（３）老人の死にざま

2-27-3-1「老人は、日一日（ひ・いちにち）と、ひとりぽっちになり、他人とのつきあいを断って暮らしていました。2-27-3-2モレルさんとメルセデスは、しげしげ見舞（みま）いにきましたが、室の戸口（とぐち）は閉（し）まったままです。2-27-3-3わたしには、たしかに部屋にいることがわかっていても、なんの返事もしないのでした。2-27-3-4すると、ある日、いつもとちがって、老人はメルセデスに会ってやりました。2-27-3-5そして女が、張（は）りさけそうな胸を抱（いだ）いて老人を慰めてやろうとしますと、『お前、ほんとにあれは死んだのだよ。2-27-3-6わたしたちがあれを待つのじゃなくって、あれのほうでわしたちを待っているのだ。 2-27-3-7わしはじつに仕合せ者さ、いちばん歳（とし：本は齢（よわい））を取っているのはわしだからな。2-27-3-8いちばんさきにあれに会えるのもこのわしなのだよ』と、申しました。2-27-3-9どんなにこっちがやさしい心を持っていても、こっちの気持を滅入（めい）らせるような人たちと、だんだん疎遠（そえん）になっていくのはいたし方ございませんな。2-27-3-10とうとう老人はまったくのひとりぽっちになりました。 2-27-3-11その後は、ときどき知らない人が来て、あの人の部屋へあがって行くのが見られました。2-27-3-12その人たちは、なにか包（つつみ）を持っては、それをうまくかくしきれずに持っておりてくるのでした。2-27-3-13わたしはあとになって、それがなんだかわかりました。2-27-3-14老人は生活を立てていくため、少しずつその持ち物を売り払っていたのでした。2-27-3-15爺さんは、とうとう見すぼらしい着物（きもの）にまでも手をつけるようになりました。 2-27-3-16家賃（やちん）は三（みっ）つもたまっている。2-27-3-17家主（やぬし）からは立ちのきを迫（せま）られる。2-27-3-18もう一週間だけ待ってくれ。2-27-3-19仕方（しかた）がない、それだけ待とう。2-27-3-20こんな事情も、家主が帰りにわたしのところへ行ったのでわかりました。2-27-3-21それから三日（みっか）のあいだ、いつものように歩いている音が聞こえていました。2-27-3-22ところが、四日目（よっかめ）になるとなんのもの音も聞こえません。2-27-3-23勇気を出してあがって行って見ますと、戸がしまっている。2-27-3-24鍵穴（あぎあな）からのぞいて見ると、顔の色つやがとても青く、だいぶようすが変なので、こりゃよっぽど悪いんだなと、さっそくモレルさんのところへお知らせし、それからメルセデスのところへかけつけました。 2-27-3-25二人とも、大急（おおいそ）ぎでやってきました。2-27-3-26モレルさんは医者（いしゃ）をつれておいででした。2-27-3-27医者の診察（しんさつ）は胃腸（いちょう）カタルで、絶食（ぜっしょく）するようにということでした。2-27-3-28わたしはその場に居合（いあ）わせましたが、これを聞いたときの老人の微笑（ほほえみ）を忘れることができません。2-27-3-29それからは、ずっと戸口をあけていました。2-27-3-30食事をしないでいい口実（こうじつ）ができたからのことなのでした。2-27-3-31医者からは絶食を言いわたされたからのことなのでした」。2-27-3-32司祭はうめくような声をたてた。 2-27-3-33「だいぶ御同情のようですが？」と、カドルッスが言った。2-27-3-34「そう、いかにもあわれなお話しです」と、司祭は答えた。2-27-3-35「それからメルセデスがやってきました。2-27-3-36あんまり老人のようすが変ってきたので、最初のように、自分の家につれていこうとしたのでした。2-27-3-37モレルさんも同じ考えで、腕（うで）ずくでも運んでしまおうとなさいましたが、あんまり老人がさわぐので、これには二人とも怖（おそ）れをなしたというわけでした。 2-27-3-38メルセデスは、老人のそばに残りました。2-27-3-39モレルさんは、暖炉（だんろ）棚（だな）の上に自分の財布（さいふ）を置いたことを知らせて、そのまま帰っておいででした。2-27-3-40が、老人は、医者の命令を楯（たて）に取って、なに一つ口（くち）にしようといたしません。2-27-3-41けっきょく、九日間（ここのかかん）というもの絶望と絶食のうちに過ごした後、自分を不幸にした人たちを呪（のろ）いながら、メルセデスには、『もしお前がわしのエドモンにめぐり会ったら、わしはあれの幸福を祈りながら死んでいったと伝えておくれ』と言ったまま、息を引き取ってしまいました」。 2-27-3-42司祭は立ち上がって、その乾ききった咽喉（のど）におののく手を当てながら、室を二（ふた）まわりほど歩きまわった。

次へ

引用者：2016/8/29　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義