２１（５）救援ボート

2-21-5-1彼は、海に飛びこむと、帽子（ぼうし）のほうへ泳ぎつき、それをかぶり、近くの角材（かくざい）の一つにすがりついた。2-21-5-2そして、船が進んで行く、その行く手を切るために泳ぎはじめた。2-21-5-3《これでおれは救われるんだ》と、彼は思った。2-21-5-4そして、この確信が彼に力をもたらした。2-21-5-5彼は、帆船（はんせん）が、真向（まむか）いから風を受けて、シャトー・ディフとブナニエ（島）の灯台（とうだい：夜間の船舶航行の目印となる照明設備）とのあいだを斜（なな）めに進んで行くのを見た。 2-21-5-6しばらくのあいだ、ことによったら船は岸に沿って行くかわりに、コルシカ、或いはサルジニヤへでも向かうために、沖のほうへ出てしまいはしないかが心配だった。2-21-5-7だが、進路から察して、イタリー行きの船のように、ジャロス島とカラザレーニュ島の間を抜けて行こうとしているらしいことが見て取れた。 2-21-5-8そのあいだにも、船との距離は、気がつかない間（ま）に近づいてきた。2-21-5-9岸にそって進みつづけていた船は、いまダンテスから、およそ十町（じゅっちょう：１０Ｘ１０９ｍ＝１Ｋｍ）ばかりのところまでやってきていた。2-21-5-10彼は、波の上に身をもたげ、危険の知らせに帽子を振った。2-21-5-11だが船の上では、誰（だれ）一人（ひとり）として気がつかなかった。2-21-5-12船は方向（ほうこう）を転じて、さらにちがった方向へ向かいはじめた。2-21-5-13ダンテスは声をあげて呼（よ）ぼうとした。2-21-5-14だが、距離を計（はか）ってみたところ、潮風（しおかぜ）に吹き払われ、波の響きに打ち消されて、おそらくとどくまいということがわかった。 2-21-5-15さいわいそのとき、彼は角材に乗ることに気がついた。2-21-5-16これほど体が弱っていては、帆船にたどりつくまで、とても体がもちそうになかった。2-21-5-17そして、よくあるように、もし帆船が彼に気がつかずに通り過ぎてしまった場合、ふたたび岸までもどりつくことなど、とてもできそうに思われなかった。2-21-5-18ダンテスは、船の進路につき、ほとんど確信をもってはいたものの、それが方向を転じてこっちへくるまで、目に不安を浮かべながら船の姿を見まもっていた。 2-21-5-19彼は、船を迎えるため、その方角（ほうがく）をさして進んで行った。2-21-5-20だが、彼は船まで達するまえに、船は、またもや方向を転じはじめた。2-21-5-21ダンテスは、あらんかぎりの勇気を奮い起こして、ほとんど水の上に立ちあがった。2-21-5-22そして、帽子を振り、進退（しんたい）きわまった船乗りのたてるあの悲痛な叫び、まるで海の魔物（まもの）がたてる悲嘆（ひたん）の叫びといったような声を振りしぼった。2-21-5-23今度（こんど）こそ、彼の姿は認められ、彼の声が向うにとどいた。 2-21-5-24船は、進行をやめると、彼のほうへ船首（せんしゅ）を向けた。2-21-5-25と同時に、ボートをおろしかけているのが見えた。2-21-5-26しばらくの後、ボートは二人の男を乗せ、二本のオールで水を切りながら彼のほうへ向かってきた。2-21-5-27そこでダンテスは、もう必要がないと見て取って、いままで持っていた梁材（はりざい）を流し、迎（むか）えにきてもらう路（みち）の半（なか）ばを助けるため、勇気を出して泳ぎはじめた。2-21-5-28だが彼は、もうほとんど失っていた自分の力に頼り過ぎていた。2-21-5-29彼ははじめて、あの角材がどんなに大切であったかを理解した。 2-21-5-30だが、それはすでに百尺（ひゃくしゃく：１００Ｘ０．３０３＝３０ｍ）ばかりも彼方（かなた）にぽっかり浮かんでいた。2-21-5-31腕（うで）は硬（こわ）ばりはじめ、脚（あし）はしなやかさを失い、動作（どうさ）は荒く、そして急（せ）きこみの度を加えていた。2-21-5-32胸には息がはずんできた。2-21-5-33彼は高い叫び声をたてた。2-21-5-34二人の水夫は、さらに力を込めて漕（こ）ぎはじめた。2-21-5-35そのうちの一人が、イタリー語で、「しっかりしろ！」と叫んだ。 2-21-5-36その言葉が彼の耳に達したとき、もはや乗りきることのできなかった波のうねりが、『どっ』と彼の頭を越したと思うと、泡立（あわだ）つ波の中に彼を沈めた。2-21-5-37彼は、溺（おぼ）れるときといったように、めちゃくちゃな、絶望的（ぜつぼうてき）な動作で水を『ばたばた』たたきながら、ふたたび姿をあらわした。2-21-5-38そして、三度目の叫びをたてた。2-21-5-39足にはまだ、あの命取りの鉄丸（てつがん）がついているかのように、『ぐんぐん』海に引きこまれて行く感じだった。 2-21-5-40波は頭の上にかぶさった。2-21-5-41そして水をとおして、黒い『しみ』のある、青白い空が目にはいった。2-21-5-42彼は、はげしい努力をこころみて、ふたたび海面に浮かびあがることができた。2-21-5-43そのとき、誰かが自分の髪の毛を引っつかんだように思った。2-21-5-44それからさきは、もうなにひとつ目にはいらなかった。2-21-5-45なにひとつ聞こえなかった。2-21-5-46彼は、気を失っていたのだった。2-21-5-47ふたたび目を開いたとき、彼は自分が船の甲板（かんぱん）にいるのに気がついた。

次へ

引用者：2016/7/17　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義