２１（４）脱獄の果ては

2-21-4-1夜が明けた。2-21-4-2ダンテスは、この壮大（そうだい）な光景（こうけい）のまえに、これが初めてといったように、黙って、不動（ふどう）の姿でたいしていた。2-21-4-3それは、シャトー・ディフに入れられてからこのかた、すっかり忘れていたものだった。2-21-4-4彼は、城のほうをふりかえってみた。2-21-4-5ゆるゆる眼差しをめぐらしながら、海と陸（りく）を見た。2-21-4-6陰惨（いんさん）なあの建物は、さも監視し、命令するといったような、不動なものの持つおごそかな威容（いよう）で、波のなかから浮かびあがっていた。2-21-4-7かれこれ朝の五時ごろらしかった。2-21-4-8海はしずまって行きつつあった。 2-21-4-9《あとニ三（にさん）時間すると、》と、ダンテスは思った。2-21-4-10《獄丁（ごくちょう：看守）はおれの室へはいって行き、あのかわいそうな仲間の死骸（しがい）を見つけ、それと知って、今度はおれを探すだろう。2-21-4-11が、けっきょく見つからずに、警報を伝えるにちがいない。2-21-4-12そこで、あの穴が見つかる。2-21-4-13今度はおれを海に投げこんだ連中（れんちゅう）、おれの叫（さけ）び声を聞いたにちがいないあの連中が調べられる。 2-21-4-14たちまち武装した兵士（へいし）をいっぱい乗せた何艘（なんそう）かの船が、さして遠くも行かないであろう逃亡者の後を追って出かける。2-21-4-15大砲（たいほう）は津々浦々（つつうらうら）の海岸（かいがん）に鳴り響いて、裸で、餓（う）えてさまよい歩いている者がきたら宿（やど）を貸（か）してはならぬことを知らせる。2-21-4-16マルセイユの探偵（たんてい）と警吏（けいり）とは、急報（きゅうほう）によって海岸をさがす。2-21-4-17一方、シャトー・ディフの典獄（てんごく：刑務所長の旧称）は、海のほうをさがすだろう。 2-21-4-18そうなったら、水上（すいじょう）からは駆り出され、陸へあがれば取りまかれて、いったいおれはどうなるのだ？2-21-4-19腹が減っている。2-21-4-20寒い。2-21-4-21泳ぐのに邪魔（じゃま）になるので、命（いのち）の親（おや）の小刀（こがたな）さえ棄（す）ててしまった。2-21-4-22おれはいま、どこかの百姓（ひゃくしょう：農家の人）に見つかって、二十フラン（二万円）の賞金で引き渡されるのがせいぜいだ。2-21-4-23力も尽（つ）きた。2-21-4-24名案（めいあん）もなく、決心（けっしん）もつかない。2-21-4-25主よ、わたしの苦しみがじゅうぶんであるかどうかをごらんください。2-21-4-26そして、わたし自身のしたこと以上を、あなたにおできになるかどうかをお考えください》。 2-21-4-27いまダンテスが、もう力（ちから）も尽（つ）き頭も空（から）になって、一種（いっしゅ）夢中（むちゅう）な気持になりながら、遥（はる）かにシャトー・ディフのほうを不安げにふりかえり、こうした熱烈な祈りを捧げていたとき、ポメーグの島の突端に、ラテン帆を空（そら）に浮き上らせ、波をかすめって飛ぶ鴎（かもめ）のように、一艘（いっそう）の小さな船のあらわれてくるのが目にはいった。2-21-4-28船乗（ふなの）りの目なればこそ、ほの暗い海の上に、これがジェノバの小帆船であることが見きわめられた。2-21-4-29船は、マルセイユ港（こう）からきたものだった。2-21-4-30鋭（するど）くとがった舳（へさき）は、きらめく泡を二つにわけ、そのふくれあがった船腹（せんぷく）に路（みち）を開（あ）けてやりながら、沖（おき）のほうへ向（む）かっていた。 2-21-4-31《ああ！》と、ダンテスは叫んだ。 2-21-4-32《訊問（じんもん）され、脱走者（だっそうしゃ）だと見やぶられ、マルセイユへ送り還（かえ）されることさえ怖（おそ）れなければ、三十分もあったらあの船まで行けるのだ。2-21-4-33どうしたらいいか？2-21-4-34なんと言ったらいいか？2-21-4-35どんな作り話をこしらえて、奴（やつ）らを騙（だま：本は欺）してやったらいいか？2-21-4-36奴（やつ）らはみんな密輸入者（みつゆにゅうしゃ）だ。2-21-4-37半分（はんぶん）海賊（かいぞく）といったやからだ。2-21-4-38沿岸（えんがん）貿易（ぼうえき）という名目（めいもく）の下（もと）に、沿岸を荒しまわっているやからだ。 2-21-4-39利益（りえき）にもならぬよけいな善根（ぜんこん）を施（ほどこ）すよりは、むしろおれを売（う）りわたそうとするだろう。2-21-4-40待ってみよう。2-21-4-41だが、待つということはできない。2-21-4-42おれは腹（はら）が減（へ）って死にそうだ。2-21-4-43あと幾時間（いくじかん）の後（のち）には、残っているわずかな力（ちから）もなくなってしまう。2-21-4-44それに、獄丁（ごくちょう：看守）のまわってくる時間もそろそろ近づく。2-21-4-45まだ警報（けいほう）は出されていない。2-21-4-46おそらく、なにも気づかれまい。 2-21-4-47ゆうべ嵐（あらし）で砕（くだ）けたあの小さな船の水夫（すいふ）だと言っても通るだろう。2-21-4-48そういうことにしておけば、たしかにほんとうと思うだろう。2-21-4-49乗組員（のりくみいん）は、みんな水に呑（の）まれてしまった。2-21-4-50ちがうと言って名乗り出るものもあるまい。2-21-4-51そうだ、そうしよう》。 2-21-4-52こう言いながら、ダンテスは目をめぐらして、あの小さな船が砕け散（ち）ったと思われるあたりをながめて見た。2-21-4-53そして彼はふるえあがった。2-21-4-54一つの巌（いわ）の突端（とったん）に、難破船（なんぱせん）の水夫の帽子（ぼうし）が引っかかっていた。2-21-4-55そのすぐそばには竜骨（りゅうこつ）の破片（はへん）がただよっていた。2-21-4-56その角材（かくざい）を、海は島の根方（ねかた）に打ちよせ打ち返し、まるで力のぬけた撞木（しもく：鐘・鉦 (たたきがね) を打ち鳴らす丁字形の棒。また、釣鐘を突く棒。かねたたき）とでもいうように扱（あつか）っていた。2-21-4-57ダンテスの決心（けっしん）はたちまちきまった。

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引用者：2016/7/17　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義