２１（３）目前の難破船

2-21-3-1一時間の後、ダンテスは恐ろしい雷鳴（らいめい）に目を覚（さ）ました。2-21-3-2嵐は存分に荒れ狂い、その烈（はげ）しく吹きまくる勢いで空（そら）を撃っていた。2-21-3-3折々（おりおり）閃（ひら）めく電光（でんこう）は、まるで火蛇（ひのへび）のように空から舞い下（くだ）り、宏大（こうだい）な渾沌（こんとん）の波とでもいったようによせかえす波と雲とを照らしていた。2-21-3-4ダンテスは、その船乗（ふなの）りの眼で見あやまらなかった。2-21-3-5彼は二つの島のうちの第一のもの、すなわちティブラン島に泳ぎついていたのだった。2-21-3-6彼は、この島が裸で、むきだしで、ちょっとした避難（ひなん）場所（ばしょ）さえないことを知っていた。 2-21-3-7だが、嵐（あらし）さえおさまったら、も一度（もいちど）海へ出て、ルメール島まで泳ぎつくことができるだろう。2-21-3-8この島と同じように痩地（やせち）ではあっても、ここより広く、ここより住み心地（ここち）がいいにちがいなかった。2-21-3-9一つの岩の切り立っているのが、一時ダンテスのために凌（しの）ぎ場所を与えてくれた。2-21-3-10彼はそこに身をかくした。2-21-3-11と、そのとたん、嵐はあらゆる猛威（もうい）を逞（たくま）しゅうして爆発（ばくはつ）した。 2-21-3-12ダンテスには、自分のかくれている岩のふるえおののくのが感じられた。2-21-3-13波は、この巨大なピラミッドの裾（すそ）に砕（くだ）けて、彼のところまで飛沫（ひまつ）を飛（と）ばした。2-21-3-14自分の身だけは安全であっても、この轟々（ごうごう）たる響きのなか、目のくらむようなきらめきのなかにあって、彼は、一種（いっしゅ）の『めまい』を感じた。2-21-3-15島は自分の足下（あしもと）にふるえ、いまにも錨（いかり）をおろした船のように、その綱（つな）を引（ひ）き千切（ちぎ）って、わが身をひろやかな旋風（せんぷう）のなかに引きずり込みそうな感じだった。 2-21-3-16彼はこのとき、二十四時間以来（いらい）、なにも食べていなかったことを思い出した。2-21-3-17腹は減り、咽喉（のど）は乾いていた。2-21-3-18彼は手と顔とを突き出して、岩（いわ）の窪（くぼ）みの雨水（うすい：あまみず）を飲んだ。 2-21-3-19それはちょうど、彼が身を起こそうとしたときだった。2-21-3-20電光（でんこう）一閃（いっせん）、まるで目もくらむ神の玉座（ぎょくざ）の下あたりまで空（そら）がさけたかと思われて、一時（いっとき）にあたりが輝（かがや）きわたった。2-21-3-21この稲妻（いなずま）の光によって、ルメール島とクロワジール岬（みさき）の間、自分のいるところから四分の一マイル（１．６Ｋｍ／４＝４００ｍ）と思われるあたりに、さも波の頂（いただ）きから深い淵（ふち）のなかに滑（すべ）りこむ幽霊（ゆうれい）のように、嵐と波に弄（もてあそ）ばれた小さな漁船（ぎょせん）の姿が見えた。 2-21-3-22幽霊はさらに一度、恐ろしい速さをもって近づいてきながら、べつの一つの波の頂きにその姿をあらわした。2-21-3-23ダンテスは呼（よ）ぼうと思った。2-21-3-24乗組（のりくみ）の人々に危険を知らせようと、何か振るための布（ぬの）があるまいかと探してみた。2-21-3-25だが、向こうでも危険を知っていた。2-21-3-26も一度電光が閃くと、青年はマストや控綱（ひかえづな）にかじりついている四つの人影（ひとかげ）を見た。2-21-3-27五人目の男は、きかなくなった舵（かじ）の柄（え）を握（にぎ）っていた。 2-21-3-28彼の見たその人々は、向こうでも彼を見たにちがいなかった。2-21-3-29それは、『ひょうひょう』と吹く狂風（きょうふう）に乗って、絶望的（ぜつぼうてき）な叫（さけ）び声（ごえ）が彼の耳に届いてきたからだった。2-21-3-30檣（しょう：ほばしら）の頂（いただ）きには、まるで葦（あし）をねじりでもしたように、あわただしく空（そら）にはためき、いまはきれぎれの一枚の帆（ほ）が鳴っていた。2-21-3-31と突然、いままでそれを引き止めていた綱が切れた。 2-21-3-32すると、帆は、黒雲（くろくも）のなかに『くっきり』浮かんだ大きな鳥とでもいったように、暗い空へ向かって吹き飛んで行った。2-21-3-33同時に物のはじける恐ろしい音がした。2-21-3-34そして、死に臨（のぞ）んだ叫喚（きょうかん）がダンテスの耳まで聞こえてきた。2-21-3-35彼は、まるでスフィンクス（古代エジプトやアッシリヤで、王宮・神殿・墳墓などの守り神として飾った人面獅子身の巨大な石像）のように、海に臨んだ岩にかじりつきながら、さらに電光の一閃によって、その小船（こぶね）の打ち砕かれる姿を見た。 2-21-3-36そして、毀（こわ）れた船のあいだに、絶望的な顔をしている人の頭と、空に差しあげられている腕が見えた。2-21-3-37やがて、すべては闇に返った。2-21-3-38この恐ろしい光景（こうけい）、それは、ほんの電光一閃の間のできごとだった。2-21-3-39ダンテスは、自分自身海にころがり落ちる危険を忘れて、つるつると滑（すべ）る岩の斜面を駈（か）けおりて行った。2-21-3-40彼は、目をすましてみた。2-21-3-41耳をたててみた。2-21-3-42だが、なにも聞こえなかった。2-21-3-43もう何ひとつ見えなかった。2-21-3-44叫喚の声も聞こえず、人のあがく姿もなかった。2-21-3-45嵐だけ、この大きな神のみわざである嵐だけが、風を誘（さそ）って吼（ほ）えたけり、波を打って泡（あわ）だたせていた。 2-21-3-46しだいしだいに風は凪（な）いでいった。2-21-3-47空は西のほうへ大きなねずみいろの雲、すなわち、嵐に色褪（いろあ）せたそれらの雲を吹きやっていた。2-21-3-48青空はいままでにないほど、『きらきら』輝く星影を見せてあらわれた。2-21-3-49やがて東のほう、紅（アカ）みがかった一本の長い帯（おび）は、水平線（すいへいせん）上（じょう）、濃い青の色をした波のうねりを描（えが）き出した。2-21-3-50波は躍（おど）っていた。2-21-3-51と見る一条（いちじょう）の光は、波の頂きを走ると見るまに、泡だちかえる波がしらを、たちまち黄金（おうごん）のたてがみに変えてしまった。

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引用者：2016/7/14　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義