２０（１）恩師との別離

2-20-1-1ベッドの上にたてに寝かされ、窓から射しこんでくるぼんやりした陽射（ひざ）しに微（かす）かに照らされながら、粗末（そまつ）な嚢（ふくろ）が見えていた。2-20-1-2その荒いひだの下には、『おぼろ』げながら、長い、硬（こわ）ばった形が盛（も）りあがっていた。2-20-1-3それは、ファリアの経帷子（きょうかたびら：死者に着せる服）で、獄丁（ごくちょう：看守）たちの言葉によれば、きわめてお粗末（そまつ）なものだった。2-20-1-4こうして万事（ばんじ）は終ってしまった。2-20-1-5ダンテスとその年老いた仲間（なかま）とのあいだには、もう形の上の別離（べつり）ができあがってしまっていた。 2-20-1-6死のかなたを見つめるといったように開ききっている眼にしても、それはもう物を見ることができなかった。2-20-1-7自分のため、かくれたものを包むベールを取りのぞいてくれたあの手にしても、もはや握ることができなかった。2-20-1-8自分があれほどなじんでいた、たいせつな、親切（しんせつ）な仲間であるファリアは、もう記憶のなかにいるだけだった。2-20-1-9ダンテスは、恐ろしいベッドの枕（まくら）もとに坐り、暗い、苦しい幽鬱（ゆううつ）に沈（しず）んでいた。 2-20-1-10一人（ひとり）！2-20-1-11彼はまた一人ぽっちになってしまった。2-20-1-12彼はふたたび沈黙のなかに落ちこんでしまっていた。2-20-1-13ふたたび虚無（きょむ）と直面（ちょくめん）することになってしまっていた！ 2-20-1-14一人ぽっち！2-20-1-15彼を地上に結びつけていたたった一人の姿は、もはや見ることもできず、声を聞くこともできなくなってしまっていた！2-20-1-16こうなった以上、ファリアのように、たといあの陰惨（いんさん）な苦痛の門を通る危険はあるにしても、むしろ神の御（み）もとに赴（おも）いて、人生の謎をお解きねがうというほうが、まだしも『まし』なのではあるまいか？ 2-20-1-17自殺（じさつ）の気持、いったんは司祭（しさい）によって払（はら）いのけられ、司祭のいることによって忘れられていたその気持が、いままた亡霊のように、ファリアの遺骸（いがい）をかたわらにした彼の目の前にもどってきた。2-20-1-18《もしおれに死ぬことができたら、》と、彼は思った。2-20-1-19《おれはあの人の行ったところへ行こう。2-20-1-20そして、おれはたしかにあの人を見つけることができるだろう。2-20-1-21だが、死ぬにはどうして死んだらいいか？2-20-1-22なに、わけはない》と、笑いながら言葉をつづけた。 2-20-1-23《おれはここにいる。2-20-1-24誰でもいい、人がきたら躍（おど）りかかって首を締（し）める。2-20-1-25そうすればおれは断頭台（だんとうだい）で殺してもらえる》。2-20-1-26だが、ちょうどあの大きな嵐の場合とおなじように、大きな苦しみの場合にあっても、高い波と高い波のあいだには深淵（しんえん）があった。2-20-1-27ダンテスは、この不名誉（ふめいよ）な死を考えるにおよんで後（あと）じさりした。2-20-1-28そして、絶望（ぜつぼう）から、たちまち烈（はげ）しい生命（せいめい）と自由への憧（あこが）れにうつっていった。 2-20-1-29《死ぬ！2-20-1-30それはいけない！》と、叫んだ。2-20-1-31ああしてまでも生（い）きぬき、あれほどまでに苦しんできたいまとなって、死ぬとはなんだ！2-20-1-32死ぬ・・・・そうだ、むかし、何年か前、はじめてその決心をした当座（とうざ）だったら死ぬのもよかった。2-20-1-33だがいまとなっては、それはおれのみじめな運命（うんめい）をさらにみじめにするに過ぎなかろう。2-20-1-34だめだ。2-20-1-35おれは生きたい、おれは最後まで戦いたい。2-20-1-36だめだ、おれは自分から取りあげられたあの幸福を取り返さなければならないのだ。 2-20-1-37おれは、死ぬよりさきに、思い知らしてやらなければならない人非人（にんぴにん）のあったことを忘れていた。2-20-1-38酬（むく）いてやらなければならない幾人（いくにん）かの友だちのあったことを忘れていた。2-20-1-39だが、こうしていればおれはここに忘れられてしまうだろう。2-20-1-40ファリア司祭のようにしてでなければ、この監房（かんぼう）から出られないにちがいない》。 2-20-1-41だが、こう言いながらダンテスは急に目を据（す）え、突然（とつぜん）なにか一つの考えが思い浮かび、しかもその考えが恐ろしくなったというように、じっと身動きしなくなった。2-20-1-42たちまち彼は立ちあがって、『めまい』がするとでもいったように、手を額（ひたい）へ持っていった。2-20-1-43そして室のなかを二度三度歩きまわると、ベッドのそばまでもどって行って立ちどまった・・・・。

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引用者：2016/7/10　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義