１９（５）老人の検死(けんし)

2-19-5-1朝の六時だった。2-19-5-2日は出ようとしていて、その蒼白（あおじろ）い光が監房のなかに差しこみ、消えようとするランプの光を薄れさせていた。2-19-5-3死骸（しがい）の顔の上にはふしぎな反映（はんえい）があって、ときどき、まだ生きているように思わせた。2-19-5-4こうして昼と夜とが争っている間、ダンテスはまだ疑うことができていた。2-19-5-5だが昼がすっかり勝利を占めてしまったとき、彼ははじめて、自分が死骸と二人きりだということを納得（なっとく）できた。 2-19-5-6彼にはそのとき、どうにもならないような深い恐怖が襲ってきた。2-19-5-7彼はもう、ベッドの外（そと）に垂（た）れている老人の手を押えていることができなかった。2-19-5-8また、幾たび閉めてやっても、いつもそのまま開いてしまう、あの『じっ』と見据えた白眼（はくがん）を見ていることもできなかった。2-19-5-9彼はランプを消し、それを用心深くかくしたあとで、頭の上に敷石をできるだけうまく載（の）せ、老人の室から逃（のが）れ出た。2-19-5-10それに第一、時が来ていた。2-19-5-11獄丁（ごくちょう：看守）のやってくる時刻（じこく）だった。 2-19-5-12その日、獄丁は、最初ダンテスの室にやってきた。2-19-5-13そして、ダンテスの監房を出てから、朝食（ちょうしょく）と敷布（しきふ）とをとどけるために、ファリアの室へうつって行った。2-19-5-14ダンテスは、なんら変事（へんじ）のあったようなそぶりを見せなかった。2-19-5-15獄丁は出て行った。2-19-5-16ダンテスは、あの不幸な老人の監房のなかで、いったいどういうさわぎが起こるだろうか、それが知りたくてたまらなかった。2-19-5-17穴にはいって行った彼は、折（おり）から獄丁が驚きの声をあげ、助けを呼んでいるのを耳にした。 2-19-5-18やがて、他の獄丁がやってきた。2-19-5-19つづいて重い、規則正しい足音、たとい勤務についていないときでも兵士独特のあの足音が聞こえてきた。2-19-5-20兵士たちの後からは典獄（てんごく：所長）がきた。2-19-5-21ダンテスは、その上で死骸の動かされているベッド音を聞いた。2-19-5-22典獄の声で、顔に水をかけろというのが聞こえた。2-19-5-23水をかけても蘇生（そせい）しないことがわかると、今度は医者が呼びにやられた。2-19-5-24典獄は出て行った。2-19-5-25なにか同情（どうじょう）しているような言葉がダンテスの耳に聞こえた。2-19-5-26と、それには嘲（あざけ）るような笑い声がまじっていた。 2-19-5-27「やれやれ」と、一人が言った。2-19-5-28「これで気ちがいも宝のところへ行けるわけだな。2-19-5-29道中（どうちゅう）御無事（ごぶじ）を祈ってやろうぜ！」。2-19-5-30「何千万両持ってたって、経帷子（きょうかたびら：死に装束）一つ買えないしまつさ」と、べつの一人の男が言った。2-19-5-31「ところがだ、」と、三番目の声が言った。2-19-5-32「シャトー・ディフの経帷子はそんなにお高くはないんだからな」。2-19-5-33「おそらくな」と、はじめに口をきいた男が言った。2-19-5-34「なにしろ坊さんという身分柄、特別『ふんぱつ』　してもらえるだろうさ」。 2-19-5-35「嚢（ふくろ）に入れてもらえるかな」。2-19-5-36ダンテスは聞き耳たてて、その一語をも聞き洩らさなかった。2-19-5-37だが、そうした話からは大したことを酌（く）み取ることができなかった。2-19-5-38やがて声は消えてしまった。2-19-5-39どうやら居合（いあ）わせた面々が室から出て行ったらしく思われた。2-19-5-40だが彼は、まだはいって行こうとしなかった。2-19-5-41死人の番をさせるため、獄丁がのこされているかもしれなかった。2-19-5-42で彼は、じっと黙って、息（いき）を殺していた。 2-19-5-43およそ一時間ばかりたったと思われる頃、沈黙のなかにかすかなもの音が聞こえて、それがだんだん高まってきた。2-19-5-44医者や士官（しかん）たちを引きつれて、典獄がもどってきたのだ。2-19-5-45一瞬沈黙（ちんもく）がつづいた。2-19-5-46言うまでもなく、医者がベッドに近づいて、死骸をあらためているのだった。2-19-5-47やがて質問がはじまった。2-19-5-48医者は、囚人をたおした病気のことを説明した。2-19-5-49そして、もう死んでいるものと診断（しんだん）した。 2-19-5-50質問や答弁（とうべん）が、さもなんでもないことのように取りかわされているのを耳にしながら、ダンテスは憤慨（ふんがい）せずにはいられ得なかった。2-19-5-51すべての人々が、あの気の毒な司祭にたいし、自分がもっている愛情のいくぶんかをでも感じてよさそうに思ったから。2-19-5-52「言われるとおりとすると、じつに残念なことでした」。2-19-5-53老人がまったく死んだという医者の断定に答えて、こう典獄が言った。2-19-5-54「おとなしい、反抗（はんこう）などしたことのない、気ちがいながらも陽気（ようき）な男でした。2-19-5-55ことに監視するのに楽な囚人でした」。2-19-5-56「おお！」と、獄丁が言った。2-19-5-57「監視などいたさないでも、この男だけは、はい、脱走（だっそう）の計画なぞ考えさえもせずに、たしかに五十年でもここにはいっていましたろう」。

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引用者：2016/7/6　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義