１９（４）わが子よ、祝されよ

2-19-4-1ダンテスは、老人を腕に抱いて、ベッドまで行っておろしてやった。2-19-4-2「さて」と、ファリアは言った。2-19-4-3「あなたは、わしのみじめな生活にとっての慰（なぐさ）めだった。2-19-4-4天によってあなたを与えられることが遅（おそ）きに過ぎたが、あなたはわたしにとって、価（あたい）の無いほどの貴い贈り物にちがいなかった。2-19-4-5その意味において、わしは天に感謝している。2-19-4-6いま、あなたと永遠に別れるにあたって、わしはあなたにふさわしいあらゆる幸福、あらゆる繁栄を祈っている。2-19-4-7わが子よ、わしはあなたを祝福するぞ！」。 2-19-4-8青年は身を投げ出し、ひざまずき、頭を老人のベッドに押しあてた。2-19-4-9「だが、この臨終（りんじゅう）のときにあたって、わしの言うことを聞くがいい。2-19-4-10スパダの宝は『ちゃん』と在（あ）るぞ。2-19-4-11神はいま、わしのため、距離（きょり）と邪魔者（じゃまもの）とを取りのぞきたもうた。2-19-4-12わしには、それが第二の洞（ほら）の奥に見えている。 2-19-4-13わしの眼は、深い土（つち）を透（とお）して、数（かず）限りない富（とみ）に眩（くら）んでいる。2-19-4-14もしあなたが、うまく逃げおおせることに成功したら、世間（せけん）が気違（きちが）い扱（あつか）いしていたこの司祭（しさい）が、じつはそうでなかったことを思い出してくれるがいい。2-19-4-15モンテ・クリスト島へ駈（か）けつけるのだ。2-19-4-16われらの宝を利用（りよう）するのだ。2-19-4-17そうだ、それを利用するのだ。2-19-4-18あなたにとって、あまりにも大きな苦しみだった」。 2-19-4-19烈（はげ）しい胴（どう）ぶるいに、老人は、そのまま言葉を切ってしまった。2-19-4-20ダンテスは頭をあげた。2-19-4-21と、赤く血走（ちばし）った眼が見えた。2-19-4-22血潮（ちしお）の波が、胸から額（ひたい）に押しあがってでもいくようだった。2-19-4-23「おさらばだ！2-19-4-24おさらばだ！」と、老人は、引きつれたように手を握った。2-19-4-25「おさらばだ！」。2-19-4-26「いいえ、まだです、まだです！」と、青年は叫んだ。2-19-4-27「おあきらめになってはいけません。2-19-4-28おお神よ！2-19-4-29お助けください・・・・わたしに・・・・どうかお力（ちから）をおかしになって・・・・」。 2-19-4-30「しずかに！2-19-4-31しずかに！」と、瀕死（ひんし）の老人はつぶやいた。2-19-4-32「万一（まんいち）助かった場合、別々にされるといけないから！」。2-19-4-33「そうでした。2-19-4-34おお、御安心ください。2-19-4-35きっとお助けしてみせます！2-19-4-36それに、ずいぶんお苦しいようではありますが、前のときよりいくらかお楽に思われます」。2-19-4-37「思いちがいをしてはいけない！2-19-4-38わしの苦しみの少ないのも、それは苦しむだけの力がなくなっているからのことなのだ。2-19-4-39あなたぐらいの年（とし）ごろだったら、命というものに信（しん）が持てる。 2-19-4-40信ずること、望むこと、これが青年の特権だ。2-19-4-41だが、老人は、『もっと』はっきり死を見ている。2-19-4-42おお！そこへ・・・・やってきた・・・・2-19-4-43もうだめだ・・・・眼が見えなくなる・・・・頭がきかなくなる・・・・ダンテス君、手だ・・・・おさらばだ・・・・おさらばだ！・・・・」。2-19-4-44そして、最後の努力で身をおもたげながら、あらん限りの力を集めて、「モンテ・クリスト島、」と、老人は言った。2-19-4-45「モンテ・クリスト島を忘れるなよ！」。2-19-4-46そして、老人はふたたびベッドの上に倒れてしまった。 2-19-4-47発作は恐ろしかった。2-19-4-48よじれた五体（ごたい）、ふくれあがった目蓋（まぶた）、血の泡（あわ）、ピクリとも動かぬ体。2-19-4-49ついさっきまでのあの聰慧（そうけい）な人のかわりに、いま、こうしたものが苦しみのベッドに横たわっているにすぎなかった。2-19-4-50ダンテスはランプを手にした。2-19-4-51そして枕（まくら）もとの、突（つ）き出している石の上にそれを置いた。2-19-4-52その揺（ゆ）れる灯影（とうえい）は、幻妖（げんよう）怪奇（かいき）な光で、形の崩（くず）れた顔、硬（かた）くなって動かない体を照らし出していた。 2-19-4-53ダンテスは、じっと眼をそそいで、けなげにも起死回生（きし・かいせい）の薬を用うべきときのくるのを待っていた。2-19-4-54彼は、いまこそそのときだと思った。2-19-4-55彼は、小刀（こがたな）をとって歯を『こじ』あけた。2-19-4-56抵抗は前のときより少なかった。2-19-4-57一滴（いってき）一滴、十滴（じゅってき）までかぞえて待った。2-19-4-58瓶（びん）のなかには、いまそそいだ分量（ぶんりょう）の二倍（にばい）ばかりが残っていた。 2-19-4-59十分待った、十五分待った、三十分待った。2-19-4-60だが、ピクリともしない。2-19-4-61ダンテスは、髪（かみ）を硬（こわ）ばらせ、額（ひたい）に冷汗（ひやあせ）をかいてふるえながら、心臓（しんぞう）の鼓動（こどう）で時（とき）をかぞえていた。2-19-4-62彼は、最後の試みをやってみるべきときがきたと思った。2-19-4-63瓶（びん）を紫色（むらさきいろ）のファリアの唇（くちびる）に近寄（ちかよ）せると、顎（あご）が開いたままになっていたので、それを開かせるまでもなく、薬をすっかりついでやれた。 2-19-4-64薬は電気のような効果をもたらした。2-19-4-65烈しい身ぶるいが老人の四肢（よんし）をゆさぶったかと思うと、見るも恐ろしいありさまで両眼（りょうがん）がカッと開き、叫び声に似た溜息（ためいき）が漏（も）れたと思うと、やがてふるえる体は次第（しだい）に不動（ふどう）の状態にもどっていった。2-19-4-66眼だけは開いたままだった。2-19-4-67半時間、一時間、一時間半の時が流れていった。2-19-4-68この恐ろしい一時間半のあいだ、ダンテスは老人の上に身を屈（かが）め、手を心臓の上に当てながら、体が冷えてゆき、心臓が、そのにぶい、深い鼓動（こどう）をしだいに弱めてゆくのを感じていた。 2-19-4-69もはやなにものも生きてはいなかった。2-19-4-70心臓の最後の鼓動がやんだ。2-19-4-71顔は蒼白（そうはく）になり、眼は開かれたままだった。2-19-4-72だが、その眼差（まなざ）しには光がなかった。

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引用者：2016/7/6　（笹倉宗）聖母マリヤ福音教会
通称「オリジナル教会」　初代代表者　笹倉正義