（４）ナポリの恋(こい)

1-5-4-1ダンテ以後の最高の詩人ペトラルカもまた、アビニヨンの貴婦人（きふじん）ラウラに思いを寄せ、この永遠の恋人をテーマとして二百七篇の俗語（ぞくご）の抒情詩（じょじょうし：自分の感情・情緒を表現する詩）をものにし、その清純典雅な詩風は一世（いっせい）を風靡（ふうび：風が吹いて草木をなびかせるように、大勢の人を従わせること）した。 1-5-4-2西暦１３３０年代には新進詩人ペトラルカの名はすでに高く、ナポリの宮廷にも聞こえていた。1-5-4-3だからボッカチオも、先輩のひそみにならわなければならない。1-5-4-4彼が自身（じしん）の永遠の恋人を見つけたのは、１３３４年、二十一歳の時である。1-5-4-5ペトラルカは教会のミサに出席していてラウラに逢ったのだが、ボッカチオも同様に、ナポリのサン・ロレンツオ聖堂のミサでフィアンメッタという美女に逢（あ）った。 1-5-4-6フィアンメッタ、すなわち「小さな炎」という意味の名はボッカチオが勝手（かって）につけたもので、この美人（びじん）の本名（ほんみょう）はマリア、ナポリ王ロベルトの庶出（しょしゅつ：本妻以外の女性から生まれること）の王女で、アクイノ伯に嫁（とつ）いでいた。1-5-4-7ボッカチオはたちまち恋におち、風景（ふうけい）絶佳（ぜっけい）のナポリ湾に船遊（ふなあそ）びを楽しむ彼女の姿を見て溜息（ためいき）をつき、清新体風の詩にその思いを吐露（とろ）した。 1-5-4-8海の波押し分けて　　　　　　　　　　 Sulla poppa sedea d'una barchetta, 1-5-4-9ひた走る船の舳先（へさき）に　　　 che'l mar segando presta era tirata, 1-5-4-10我が思う君は女王のごとく座し 　　la donna mia con altre accompagnata, 1-5-4-11あの歌この歌をうたっていた・・・・　cantando or una or altra canzoneetta・・・ 1-5-4-12だが彼はダンテでなく、彼女はベアトリーチェともラウラとも似ていなかった。1-5-4-13清楚（せいそ）な令嬢（れいじょう）でも貞淑（ていしゅく）な奥方（おくがた）でもなく、奔放（ほんぽう）な欲望に生（い）きる不倫（ふりん）の人妻（ひとづま）だったから、ボッカチオの恋愛（れんあい）は、先輩（せんぱい）たちのような「詩的虚構（してき・きょこう）」の域（いき）にはとどまらなかった。 ---「詩的虚構（してき・きょこう）」、なるほど、ダンテとペトラルカの恋人は、天才詩人のみに許される「虚構」なのか。しかし、名前を無断で使われた女性にとっては、いたく迷惑な話であることに変わりはない。 1-5-4-14フィアンメッタは自分に熱（あつ）い憧（あこが）れの視線（しせん）を向けるこの青年（せいねん）を憎（にく）からず思ったに違いないが、彼女の浮気（うわき）の基準（きじゅん）はただ相手の若さや男ぶりだけでなく、財布（さいふ）の中身（なかみ）も同様（どうよう）に重要（じゅうよう）なポイントになっていたので、バルディ銀行の縁者（えんじゃ）とあらば金回（かねまわ）りがいいはずと、思い込んだふしがある。 1-5-4-15実際は彼女の思うほどには裕福（ゆうふく）ではなかったが、相手（あいて）は庶出（しょしゅつ）とはいえ王女であり、魅惑的（みわくてき）な美女である。1-5-4-16まさかと思った恋が成就（じょうじゅ）したのに有頂天（うちょうてん）になり、創作意欲（そうさくいよく）も泉（いずみ）のように溢（あふ）れ出て、その前後（ぜんご）に三篇（さんぺん）の長編（ちょうへん）叙事詩（じょじし）を書き上げたほどである。 1-5-4-17彼の財布（さいふ）はたちまち空（から）になり、金（かね）の切れ目が縁（えん）の切れ目で、「久遠（くおん）の恋」であったはずの関係は、生々（なまなま）しい情痴（じょうち）のもつれに変わってしまった。1-5-4-18そして、ボッカチオがその愛欲（あいよく）の泥沼（どろぬま）の中で泣いたり笑ったりしている間に、イタリアとヨーロッパの状況は大きく暗転（あんてん）し、時の文化の粋（すい）をお集めて華（はな）やかに享楽的（きょうらくてき）なナポリ王国の宮廷も、世界の富を集中するかに見えた自治都市（じちとし：コムーネ）フィレンツェの経済界も、しだいに黒い影に覆（おお）われつつあったのだ。

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ミチオ書・第一部・（文章）歴史物語・藤沢道郎 ページ製作者：ささくら修道会　笹倉正義

2014/9/1、2017/2/17、2019/1/11 （ささくら宗）聖母マリヤ福音教会：通称：「オリジナル教会」