火野葦平「戦争犯罪人」より
１０．孤島ゴドムの戦犯（２／２）

遂に、病気で倒れた。倉庫を改造した別棟の病室に入れられた。このことが森の命を救うことになつた。当時まだ残つていた一般日本人の捕虜のうちから、中年女の看護人をつけてくれた。アメリカの軍医は親切だった。このとき入院しなかつたら、森は生きて日本に帰れたかどうかわからない。判決が行われることになつて、看護人につき添われ、病躯をおして法廷に出た。求刑どおり死刑であった。

火傷しそうに強い日ざしを避けてヤシの木かげを縫って歩いた。森の手には手錠がはめられているが、番兵はついていない。付き添いの女にまかせて、どこかへ行つてしまつた。島では逃亡のしようはないし、したところで、いたる処にある監視塔から機関銃の銃口が油断なく狙っている。「森さんはまだお若いようだけど、お嫁さんは？」横田トヨという、血色のよい中年女は母親のようなやさしさで訊ねた。「まだ独身です。一人息子だもんですから、早く家内を持たせるなんて、両親はいうとつたんですが、赤紙が来てしもうて・・・」。「御両親はいらつしゃるのね」「います。いえ、わたくしが出征のときのままなら、いる筈です」

長崎
（Ｐ３１５）「お国はどちら？」「長崎です」「そりやァ・・・」となにかいいかけて、トヨは呼吸をのんだ。原子爆弾のことが頭に浮んだのであろう。森もそのことには気がついたので、「いえ、長崎市とはちがいますから、原爆にはやらちや居らんと思います。ただ、母親が病身で、わたくしが出るときは寝こんで見送りにも来られなかったもんですから」「あなたがた、みんな、日の丸の旗を振られて、万歳万歳ッて、送られていらしたのね」。

観音菩薩
二人はしばらく無言で歩いた。倉庫の病室に帰って来た。手錠がはずされた。二人きりになると、横田トヨは不思議な感情をあらわした。「あなたは女を知らずに死んでしまうのね。あなたの青春なんて、ジャングルと牢獄のなかで終つてしまつたわけね。可愛そうに」。そうして、自然のような形で、肉体の交わりが行われた。トヨの夫は戦死したとのことだつた。トヨは森へはなむけをするのだといつたが、それは自分へのはなむけであつたのかも知れない。

この島で処刑されるものと思っていると、飛行機に乗せられて、ニューギニヤのラバールにつれて行かれた。そこの日本兵捕虜収容所の中にも、戦犯の別棟があつて、死刑、終身、重労働五十年、というような重刑を課せられた兵隊たちがたくさんいた。そこから、マニラを経て日本に帰るまでは以外に早かつた。生きて日本の土を踏めることなど想像もしていなかつたので、森は狐につままれた思いだつた。しかも、ずつと生まれてはじめて乗る飛行機ばかりだつたので、真剣になつて、いく度も、夢ではないかと考えたほどである。羽田飛行場から巣鴨プリズンまで、囚人者で送られたが、その途中、どこかで汽車の汽笛が鳴るのが聞えた。ふいに涙が出た。森は通信が許されるようになつても、家族には自分が巣鴨にいることをしらせなかつた。
　
次へ

2012/3/14　笹倉キリスト教会　笹倉正義